河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとてもマズく、また暑い時期はすぐに腐っていた。「残暑に醪が腐敗して困る、何とかして欲しい」と多くの業者から嘆願された河内は、本格的な研究に取り組んだ。幼い時から発酵食品に馴染み家業を継ぐつもりだった河内にとって、鹿児島の焼酎業は身近なものに感じたようである。暑い鹿児島の焼酎に寒冷地向きの日本酒と同じ黄麹菌を使っている事が原因では、と気づいた河内は、鹿児島よりさらに暑い沖縄の泡盛が腐敗しないことを思いつき、沖縄から泡盛の黒麹菌を持ち帰った。河内はこれを、焼酎作りに最適な「河内黒麹菌」(学名:アスペルギルス・アワモリ・ワァル・カワチ)に3年かけて培養した。河内の熱心な技術指導は、鹿児島の多くの業者に慕われ、焼酎の近代化をもたらした。日本の焼酎文化はここから始まったといわれている。こののち1924年、顕微鏡で黒麹菌を覗いていると、中に白みがかったカビを発見。取り出して培養すると「泡盛黒麹菌」より性能が安定し、これを使うと焼酎の品質も一段と向上することが分かった。これを「河内白麹菌」と名づけ、「泡盛黒麹菌」の突然変異によって生じたもの、として学界に発表したが、当時の学者からは無視された。認知されたのは1948年、京都大学北原覚雄教授によって立証され学名をアスペルギウス・カワチ・キタハラと名付けられた時で、23年後の事だった。こうしてさらに飛躍的な品質向上をもたらす「河内白麹菌」の培養に成功したものの、地元鹿児島では「泡盛黒麹菌」に切り換えたことで焼酎製造が既に安定操業しており、河内白麹菌は採用されなかった。やむなく河内は大蔵省を46歳で退官、1931年昭和6年鹿児島市清水町に麹菌を製造販売する「河内源一郎商店」を創業し、各種焼酎用種麹の研究を続けた。こののち北九州を皮切りに九州全土へ、また全国へ評判が広がり、現在わが国の本格焼酎の9割近くが河内菌を使用し、韓国の焼酎も殆どが河内菌で生産されることになる。1948年、自宅の玄関で倒れ65歳で死去。絶えず増殖し続け温度や湿度が大きく作用する麹菌のために、1年中麹を入れた培養基を持ち歩き、倒れた時も試験管を懐に抱いていたといわれる。実はこの時源一郎が執念を燃やしていたのは焼酎ではなくグルタミン酸ソーダの発酵法による精製であった。戦時中からこの研究に取り組み1948年3月についにその結晶化に成功、当時の鹿児島大学の西田教授はそれを確認している。しかしながら持病の胃潰瘍の手術のため絶食をしたことがたたり心臓麻痺で急逝した。戦中戦後のこととてその資料は残されておらず、この技術が日の目を浴びる事はなかった。河内源一郎商店2代目会長の山元正明が白麹菌から新種の黒麹菌を発見。それを培養したことが、近年の黒麹焼酎ブームに至る。泡盛黒麹菌と焼酎黒麹菌は通名は同じでも学名は別なものである。河内源一郎商店は現在、3代目となる山元正博(農学博士)が引き継いでおり、親子3代に渡り麹の研究は今もなお続いている。3代目の山元正博は源麹研究所を設立し、麹を畜産や肥料などに活用する研究を行っている。
出典:wikipedia
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