レオポルド3世(、1901年11月3日 - 1983年9月25日)は、第4代ベルギー国王(在位:1934年 - 1951年)。第3代国王アルベール1世と王妃エリザベートの子としてブリュッセルに生まれる。王太子時代に第12ベルギー連隊の兵士として第一次世界大戦を戦った。戦後の1919年、カリフォルニア州サンタバーバラの聖アンソニー神学校に入学。1926年11月4日、ストックホルムでスウェーデンのアストリッド王女(オスカル2世の三男ヴェステルイェートランド公カールの三女)と結婚した。父アルベール1世が遭難死したため、後継者のレオポルド3世として1934年2月23日に即位した。1935年8月29日、国王夫妻がスイスのキュスナハトにある別荘近くの道をドライブ中、レオポルド3世が運転を誤り車がルツェルン湖に転落した。この事故で王妃アストリッドが崩御した。1941年9月11日、イギリス出身の女性リリアン・バエルと身分を越えて再婚した。レオポルド3世は反ユダヤ主義者だった。1940年1月、政府に「1939年9月以降に不法入国したユダヤ人の数は30,000と見積もられるが、彼らへの訴追が充分になされていない」と主張した。第二次世界大戦におけるドイツ占領下では、何千ものユダヤ人、フランドル民族主義者などがフランスへ追放された。1940年5月10日、ドイツ軍がベルギーに侵攻した。しかし、過去に仏独間の戦争でベルギーが戦場となった経験から、レオポルド3世は様々な準備を1930年代の内には終えていた。だが、ドイツ軍の電撃戦の前にイギリスの派遣軍やフランス軍と連携することが出来なかった。ベルギーは開戦時点で枢軸国に対する備えがヨーロッパで最も進んでいた国で、ベルギーの砲兵部隊は全土が制圧されるまでの3週間にドイツ軍に多くの損害を与えた。この粘り強い抵抗が、イギリス派遣軍が海岸地帯から切り離されることを防ぎ、ダンケルクからの撤退を可能にした。ベルギー軍の降伏後、レオポルド3世はドイツ側と会談するためにブリュッセルに残った。この間に政府の全機能はパリを経てロンドンに亡命した。この行動を受け、フランス首相ポール・レノーは、レオポルド3世を反逆罪で起訴した。レオポルド3世はナチスへの協力を拒絶し、命令に従ってベルギーを統治することを拒否した。にもかかわらず、ロンドンのベルギー亡命政権はその支配権を認めなかった。ドイツ軍はレオポルド3世をブリュッセルの王宮に監禁した。ハインリヒ・ヒムラーはレオポルド3世をドイツに移送するよう命じた。その翌日、リリアン夫人と家族を乗せた車が、武装した親衛隊に警備されて続いた。1944~1945年の冬の間、国王一家はナチスによってザクセン州ヒルシュシュタイン・アン・デア・エルベの城砦、次いでオーストリアのザルツブルクに近いシュトローブルに監禁された。一家は1945年5月にアメリカ陸軍によって解放された。しかし、戦争の間のレオポルド3世の行動をめぐる論争のため、国王一家はベルギーに帰国することが出来ず、スイスで6年間の亡命生活を過ごした。その間、1944年に議会によって摂政に任命されたレオポルド3世の弟シャルル王子がベルギーを統治していた。1946年、査問委員会はレオポルド3世を反逆罪に問わないと決定した。にもかかわらず、彼の愛国心を問う論争は続いた。そして1950年、レオポルド3世の復帰の是非を問う国民投票が開催された。国民のおよそ57%が彼の復帰を支持した。そして、国王支持派と反国王派ははっきりと分かれており、反国王派の多くは社会主義者とワロン人で構成されていた(ワロン地方はおよそ42%が賛成)。一方、国王の復帰を支持したのはキリスト教民主主義者とフランデレン人だった(フランデレン地方ではおよそ70%が賛成)。同年の帰国に際して、レオポルド3世はストライキなどの抗議行動の出迎えを受けた。ストライキは暴徒化し、憲兵隊との衝突で数人の犠牲者が出た。ベルギーは内戦の危機に瀕し、レオポルド3世は国家の分裂を避けて君主制を維持するため、20歳の息子ボードゥアンを支持するよう命令を出し、1951年7月16日に退位した。退位後のレオポルド3世はアマチュアの社会人類学者として世界中を旅した。セネガルを訪れた際にはフランスの非植民地化プロセスを激しく批判した。1983年、ウォルウェ=サン=ランベールで崩御した。ラーケンの聖母マリア教会にアストリッド王妃と共に埋葬された。アストリッド王妃との間に以下の2男1女を儲けた。また、リリアン夫人との間に以下の1男2女を儲けた。
出典:wikipedia
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