梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉12月15日 - 1956年〈昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家である。株式会社ヤナセの創業者として知られる。群馬県碓氷郡豊岡村(現在の高崎市)に、梁瀬孫平の長男として生まれる。梁瀬家の先祖は甲州武田家の遺臣であり、武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ高崎の一歩手前の豊岡村に土着して農業、精米、養鯉などを家業としていたという。豊岡村の小学校を卒業すると単身上京、東京府尋常中学校(のちの府立一中)に通う。故郷の豊岡村から自分で農産物を持ってきて、下宿の前で近所の人に安く売るなどして、学費と部屋代、本代をまかない、苦学して卒業した。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した梁瀬は大阪商船(現商船三井)に入社し、その後三井物産に転じた。1915年(大正4年)、梁瀬は三井物産機械部から独立して、同社から輸入自動車及び輸入鉱油類の一手販売権を譲渡されるとともに、270坪の工場及び店舗の貸与を受けて東京・日比谷に個人商店「梁瀬商会」を設立、アメリカの自動車であるビュイックとキャデラック、同じくアメリカ、バルボリン社製鉱油類の輸入販売を始めた。同年に設立された日本自動車協会において梁瀬は理事となった。2年後には事務所を東京・呉服橋に移転、1920年(大正9年)には事業別に独立した会社組織、梁瀬自動車株式会社(自動車)と梁瀬商事株式会社(鉱油)を設立して両社の社長に就任した。しかしながら経済大不況から、仕入れた車はほとんど売れず、ノイローゼに掛かった梁瀬は妻を連れて欧州に逃げるように旅行に出かけた。身も心も、会社も、瀬戸際に追い詰められていた1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。大災害の時は、「物より人の移動が優先する」との直感で、独立の恩人である三井物産常務山本条太郎や周囲の猛反対にも拘わらず、大量の在庫を抱える中で震災直後にGMに乗用車2000台を新たに注文、横浜へ出荷し、それが当たって破産寸前から立ち直った。逆にトラックを輸入した同業者は在庫の処分に苦労したとされる。1924年(大正13年)以降は、日本各地の有力者との共同出資により乗合自動車事業を展開した。1927年(昭和2年)に日本フィアット、1939年(昭和14年)に日本瓦斯自動車を設立し、1945年(昭和20年)に梁瀬自動車会長に選任された。1952年(昭和27年)に輸入自動車協会(現日本自動車輸入組合)を立ち上げ同会長を務めている。生まれつき病弱で吃音だった息子次郎に対し、「できそこない」ときめつけ、ことごとくつらくあたった。 「慶應風情のバカ学校に通って云々~」などとワンマンであった長太郎には息子・次郎は頼りなくみえたらしく、また次郎の方も幼き頃からそんな父に反発と同時に競争心も宿らせていた。当初は大学の同窓の後輩から社長に充てる腹積りでいたが、役員陣らの大反対で、結局は次郎に禅譲することになった。次郎によると、「ふりかえってみると、私の半生の大半は、父長太郎に対する反発と抵抗の歴史であったと思う。」という。
出典:wikipedia
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