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YOSHIKI

YOSHIKI(ヨシキ、本名:林 佳樹(はやし よしき)、1965年11月20日 - )は、日本の音楽家。ソングライター、作詞家、作曲家、編曲家で、音楽プロデューサー。1989年にメジャー・デビューしたロックバンド、X JAPANのドラマー/ピアニストとして最もよく知られており、バンドのリーダーも務めている。X JAPANのほかにも、Violet UK、L・O・X、V2、globe extreme、S.K.I.N.として活動がある。ソロとしても3作のスタジオ・アルバム『Eternal Melody』(1993年)、『ETERNAL MELODY II』(2005年)、『YOSHIKI CLASSICAL』(2013年)を発表しており、これまでのソロとしての大きな仕事には『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』のための奉祝曲(1999年)、『日本国際博覧会(愛知万博)』の公式イメージ・ソング(2005年)、ゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソング(2012年)などがある。1986年に設立したインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」は、LUNA SEAやGLAY、などを輩出し、ヴィジュアル系ムーブメントのパイオニアの1つとなった。1993年からは他のアーティストのプロデュースも始め、これまでにNOA、GLAY、西城秀樹、北野井子、DIR EN GREY、工藤静香などの作品を手がけている。2000年に「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣表彰を受けた。1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2人兄弟の長男として生まれる。父はジャズ・ピアノ、母は三味線、叔母は琴の演奏を嗜むなど音楽的な一面があった。また、父は先代から家業を継ぐまでプロのタップ・ダンサーであった。4つ歳の離れた弟・光樹は元俳優で、現在はYOSHIKIのマネージメントを行っている。幼少期は仕事で忙しい両親に代わり、主に家政婦が兄弟の面倒を見ていた。4歳になると父からピアノを買い与えられ、自宅そばのピアノ教室でクラシック・ピアノのレッスンを受け始める。日頃から父が購入するクラシック音楽のレコードを好んで聴き、8歳の時にシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」が収録されたレコードを初めて自分の小遣いで購入した。病弱で重い小児喘息を患っていたために、小学校中学年になるまで頻繁に入退院を繰り返す生活を余儀なくされた。病室では父が見舞いに持参した子供向けの偉人伝を愛読し、とりわけ若くして難聴となりながらも数々の名曲を残したベートーヴェンの苦難の人生に対して強い興味を抱いた。9歳頃からピアノで作曲をはじめ、10歳から14歳まで学校のブラスバンド部でトランペットを担当した。毎年、誕生日には楽器を買い与えられることが恒例で、トランペットを始めたのも10歳の誕生日に父から買ってもらったことがきっかけであったが、その翌年の8月に父を自殺により亡くした。34歳の若さであった。それまではクラシック音楽しか聴いていなかったが、行きつけのレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれて購入したキッスのシングル「ラヴ・ガン」と、母に頼み連れていってもらったキッスの『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにロックに魅了され、11歳でドラムスを始めた。12歳でギターも始めたが、細かい作業が性に合わず早々に手を引いた。11歳で初めてのバンド「DYNAMITE」を小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshlの4人で結成し、近所の貸しスタジオでキッスの楽曲を練習して腕を磨いた。YOSHIKIはドラムスとボーカルを兼任していたが、声変わりが遅く高声しか出すことが出来なかった。中学校に進学後、新たに同級生をボーカルに迎え、バンド名を「NOISE」に改称。YOSHIKIはドラムス専任となり、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏した。より複雑なリズムを叩くため、14歳の誕生日に母に頼んでダブル・ベースのドラムセットを手に入れ、同じくダブル・ベースを使うレインボーを手本に練習を積んだ。中学校の体育館で開かれた予餞会で初めてのステージを踏み、高校進学後もNOISEとしてレッド・ツェッペリンやUFO、レインボーなどの楽曲を学校の文化祭などで演奏した。1982年の夏、大学受験に専念するメンバーが離脱したNOISEを解散。当時アイアン・メイデンのアルバム『鋼鉄の処女』や『キラーズ』に感化されていたYOSHIKIは、ボーカルに転向したToshlと他校の生徒によるツインリードギター編成で、よりハードなロックを指向したバンド「X」(現在のX JAPAN)を新たに結成する。Xでは既存の楽曲の演奏だけでなくオリジナル楽曲の作曲も始め、演奏のレパートリーを着実に増やしていった。YOSHIKIがXのために初めて作曲した楽曲「I'LL KILL YOU」は、1985年にXの1作目のシングルとしてリリースされている。高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学んだ。受験勉強の合間にはXとしていくつかのバンド・コンテストに出場。ヤマハ主催のアマチュアのバンド・コンテスト『EastWest』の千葉県大会ではバンドとしての受賞こそ逃したものの、個人でベスト・ドラマー賞を受賞した。Toshlもまた、その後に参加したコンテストでベスト・ボーカル賞を受賞していた。このことにバンドとしての可能性に自信を深めていたToshlは、大学に進学せず東京でバンドを続ける決意を固めたことをYOSHIKIに告げる。YOSHIKIもこれに呼応して、推薦入学が決まっていた音楽大学への道を断つ決心をした。高校を卒業するとバンド活動の本格化のためToshlと共に上京。ライブ・ハウス時代には、Xが出演していたライブ・ハウス「神楽坂EXPLOSION」の店員がDoomのメンバーであった繋がりから、Doomの初ライブでヘルパーとしてドラムを叩いている。また、Xの活動と並行してLip CreamのNAOKI、ORANGEのACTとともにパンク・バンド「L・O・X」を結成して活動していた。Xのレコードをリリースするため、1986年にインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。1988年にエクスタシーレコードからリリースしたXの1作目のアルバム『Vanishing Vision』はオリコンの週間チャートで最高19位を記録し、インディーズ・レーベルの作品として日本のメジャー・チャートにランクインした初めてのアルバムとなった。翌1989年にXの2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でCBSソニーからメジャー・デビュー。年末には日本有線大賞の最優秀新人賞、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞、第4回日本ゴールドディスク大賞の最優秀新人賞などを受賞した。X JAPANの1993年のアルバム『ART OF LIFE』からはバンドのプロデューサーも担っている。1991年の10月31日にTMNの小室哲哉とともに記者会見を開き、2人で新ユニット「V2」を結成することを発表。12月5日に東京ベイNKホールでV2のコンサート『V2 SPECIAL LIVE VERGINITY』を開催した。同年、初のソロ名義作として、自身の選曲によるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection』を12月12日に発表。このアルバムは第6回日本ゴールドディスク大賞で洋楽アルバム賞(クラシック部門)を受賞した。1992年にV2としてシングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」をリリース。また、ロサンゼルスに自身のレコーディング・スタジオと自宅を購入し、制作と生活の拠点をアメリカに移した。MIDIやシンクラヴィアなどコンピュータ・ベースの制作環境に関心を持ち、バンドの枠を超えたプロジェクト「Violet UK」を構想する。1992年7月23日に東芝EMIと初めてとなるソロ契約の締結を発表。7月30日に日本武道館で『YOSHIKI TALK LIVE at 武道館』を開催し、1993年にX JAPANの作品としてリリースされた自らの半生を描いた楽曲「ART OF LIFE」をピアノ協奏曲形式で初演した。また、年末にNHKホールで行われた『第43回NHK紅白歌合戦』の全出場歌手で歌う合唱曲「TEARS〜大地を濡らして〜」を作詞・作曲し、会場のパイプオルガンで伴奏した。「TEARS〜大地を濡らして〜」もまた、X JAPANのシングル「Tears」として1993年にリメイクされた。東芝EMIからは、ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティンとのジョイント・プロジェクトとして、アルバム『Eternal Melody』と、シングル「Amethyst」が1993年にリリースされた。ジョージ・マーティンは日本武道館での「ART OF LIFE」の演奏をビデオを観てプロデュースを快諾した。1993年にはTBS系で10月から放送されたドラマ『徹底的に愛は…』の主題歌としてNOAのシングル「今を抱きしめて」をプロデュースし、第36回日本レコード大賞で優秀賞を受賞した。1994年にはクイーンのドラマーであるロジャー・テイラーとのコラボレーション・シングル「Foreign Sand」をリリースし、2人は国連UNESCOの呼びかけによりにより催された『GME '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』で共演した。また、キッスのトリビュート・アルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』に、ピアノ協奏曲にアレンジした「ブラック・ダイヤモンド」で参加した。同年にメジャー・レーベル「プラチナム・レコード」を設立し、GLAYをメジャー・デビューさせた。同レーベルからは、1996年に自身2作目となるクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection II』もリリースされた。1994年3月10日の夜中午前1時過ぎ、YOSHIKIはロサンゼルスのサンセット大通りでフェラーリを運転中、前を走行中の車に対してクラクションを鳴らし続けたため、州の交通違反としてパトカーに捕えられ、車から降りたところ、強いアルコール臭と千鳥足のために飲酒運転とスピード違反で現行犯逮捕された。この時に助手席には工藤静香が同乗していた。工藤は長期オフを利用しYOSHIKIのハリウッドの豪邸に泊りに来ていた。ウエスト・ハリウッド署に身柄を移されたYOSHIKIは、アルコール濃度の呼吸テストを受けた後、保釈金500ドルを払い釈放されたが、6か月の免停となり、1000ドルの罰金とトラフィック・スクールでの講習が義務づけられた。この逮捕騒動と恋愛スキャンダルは日本で大きな話題となり、YOSHIKIは事務所を通じたFAXで「毎日のレコーディングに嫌気がさして、はめを外してしまいました」と素直に事実を認め、工藤静香との交際宣言もした。1997年4月20日にボーカリストのToshlがX JAPANを脱退。同年9月22日に都ホテル東京で記者会見を開き、X JAPANの解散を発表した。2000年に新たなボーカリストを加えた形で再結成することや、自身も日本やアメリカで音楽プロデューサーとして本格的に活動することを予定していたが、1998年5月2日にギタリストのHIDEが急逝したたことで精神的に落ち込み、頓挫。北野井子やDir en greyのプロデュースを手がけるものの、表舞台には一切上がらずにいた。そんな中、『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』の奉祝曲の制作依頼を受け、1999年11月12日に皇居前広場で行われた式典で作曲したピアノ協奏曲「Anniversary」を演奏。この時に受けた歓声が再起の契機となった。2000年6月にメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン」の設立を発表。Shiroや、BEAST、Revenusなど、レーベル所属のアーティストのデビューに携わった。また1998年2月にロサンゼルスに設立したレーベル「エクスタシー・レコード・インターナショナル」に所属する、アバンダンド・プールズ、ローラ・ドーン、キドニーシーヴスらのアルバムをプロデュースした。Violet UKの制作も再開し、自ら出演し、演出も手がけたセブン-イレブン・ジャパンの企業イメージCFに「Confusion」「The Other Side」「Blind Dance」の3曲を使用した。Violet UKとしては1998年公開の映画『イン・ゴッズ・ハンズ』に楽曲「sane」を提供している。2000年11月1日には、東京国際フォーラムで開催された松任谷由実のコンサート『Brothers & Sisters』にゲスト出演し、「翳りゆく部屋」をピアノで伴奏した。2002年9月1日、お台場で行なわれたライブ・イベント『a-nation avex SUMMER FESTA 2002』のステージでglobeに加入することを発表(2005年にYOSHIKIを加えての活動の際の名称がglobe extremeになることが発表された)。同年12月に東京国際フォーラムで『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』を開催。弦楽器に比重が置かれた16型編成のオーケストラを藤原いくろうとコンスタンチン・D・クリメッツが指揮したこのコンサートには、Violet UKからドーターとニコール・シャージンガーも参加し、ニコールは「I'll Be Your Love」の英語バージョンを歌った。「I'll Be Your Love」は2005年日本国際博覧会「愛・地球博」の公式イメージ・ソングとして、YOSHIKIが抜擢したハワイ出身の歌手・DAHLIAが歌ったものがシングルとして2003年10月29日にリリースされた。ニコールが歌う英語バージョンは、同年9月26日にリリースされた愛知万博の公式アルバム『「愛・地球博」presents GLOBAL HARMONY』に収録された。2003年2月1日に放送された、NHKのテレビ放送50周年記念番組『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』のエンディング・テーマとして、チョ・ソンモと島袋寛子が歌う「君だけだから」を作曲し、番組ではピアノで伴奏した。2004年には宝塚歌劇花組公演『TAKARAZUKA舞夢!』で春野寿美礼が歌う「世界の終りの夜に」を作曲。また、エイベックスを介して依頼を受けた韓国のロック・バンド「TRAX」の日本デビュー・シングル「Scorpio」をプロデュースした。2005年には愛知万博の開会式でEXPOスーパーワールドオーケストラが演奏する「I'll Be Your Love」のクラシック・アレンジバージョンを指揮した。事前にヘルベルト・フォン・カラヤンや、レナード・バーンスタイン、小澤征爾らのビデオを観てトレーニングを積んだ。また、シェリー・バーグや川本統脩から本格的な指導を受けたほか、佐渡裕からもアドバイスを受けて指揮に臨んだ。同年、2作目となるクラシック・アルバム『ETERNAL MELODY II』と、『YOSHIKIシンフォニックコンサート2002 with 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 featuring VIOLET UK』のライブDVDを、2003年2月に専属契約を結んだコロムビアミュージックエンタテインメントからリリースした。2006年には、劇場長編アニメーション映画『ベルサイユのばら』の音楽を担当すると発表。同年8月5日にボルチモアで開催されたアニメ・コンベンション『オタコン2006』に特別ゲストとして招かれた。2007年には、5月25日と26日にロサンゼルスのウィルターン・シアターで『J-Rock Revolution Festival』を主宰。YOSHIKIはGACKT、SUGIZO、雅-miyavi-とのロック・バンド「S.K.I.N.」の結成と、同年6月にロングビーチで開催される『Anime Expo 2007』において、S.K.I.N.としての初めてのライブを行うと発表した。また、2007年公開のアメリカ映画『カタコンベ』や『ソウ4』の主題歌を制作したほか、2008年公開のアメリカ映画『REPO! レポ』の音楽総監督や製作総指揮を務めた。『ソウ4』の主題歌には、Toshlとの約8年ぶりの再会をきっかけに再結成に向けて動き出していたX JAPANの楽曲「I.V.」が使用され、2007年10月18日にX JAPANは公式ウェブサイトで再結成を発表した。2008年には、日本テレビ開局55年記念ドラマ『東京大空襲』の主題歌として、秋川雅史が歌う「愛する人よ」を制作したほか、黒澤明生誕100年祭『AK100 Project』の音楽プロデューサーを務めると発表した。2009年には、日本テレビ系情報番組『ズームイン!!SUPER』の天気コーナーに「BLUE SKY HEAVEN」を提供した。2010年10月24日に、東京の赤坂BLITZでToshlのコンサート『Toshl LAST CONCERT"武士JAPAN"』をプロデュースし、ゲスト・ミュージシャンとしてピアノで参加した。2011年5月からアメリカの衛星ラジオ局「シリウスXM」のハード・ロック専門チャンネル「ザ・ボーンヤード」で『YOSHIKIラジオ』と題した音楽番組のホストを務め、自身が影響受けた音楽やアニメなどの日本の大衆文化を紹介した。月1回の1時間番組で、1回目の5月27日のみ東部時間20時からが放送され、2回目となる6月5日から7回目の11月6日までは毎月第1日曜日の東部時間21時から放送された。2010年10月10日に行われたX JAPANのニューヨーク公演を見て関心を持ったラジオ局の関係者が、YOSHIKIに新番組の依頼をしたことがきっかけとなった。2012年にはハリウッド外国人映画記者協会からゴールデングローブ賞の公式テーマ・ソングの制作依頼を受け、制作した楽曲「ゴールデングローブのテーマ」が第69回ゴールデングローブ賞の授賞式から使用されている。同楽曲は2013年1月にiTunes Storeを通じて、ソロ名義では初めて全世界111ヶ国に配信された。同年8月27日には『Eternal Melody』と『ETERNAL MELODY II』の収録曲に、「ゴールデングローブのテーマ」とX JAPANのワールド・ツアーのオープニングで使用された新曲「Miracle」を加えたベスト・アルバム『YOSHIKI CLASSICAL』をリリースした。アルバムの発売を記念して、前日の26日にロサンゼルスのグラミー・ミュージアムで『An Evening with Yoshiki』と題されたショーケースを行い、その模様はニコニコ生放送とUstreamで生中継された。2014年2月19日にグラミー・ミュージアムでソロ公演を兼ねた記者会見を開き、ソロとしては初めてとなるワールド・ツアー『YOSHIKI CLASSICAL WORLD TOUR』を開催すると発表。ツアーでは4月25日のカリフォルニア州コスタメサを皮切りに、アメリカ、メキシコ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、中国、タイ、台湾、日本を廻り、同年公開のアニメーション映画『聖闘士星矢 Legend of Sanctuary』の主題歌として制作した楽曲「Hero (Yoshiki Classical Version)」も披露した。グラミー・ミュージアムでは会見当日から、アジアのアーティストとしては初めて愛用のピアノやステージ衣装などが展示された。2014年3月14日には、テキサス州オースティンで開催された音楽コンベンション『SXSW』に出演。イベント終了後に行われたアフター・パーティでは会場にピアノを2台設置して、自身のホログラムとの連弾を披露した。同年7月4日、毎年パリで開催されている日本の大衆文化を紹介するコンベンション『Japan Expo 2007』に参加し、ソロ・コンサートを開催。途中、ゲストにイラストレーターの岩元辰郎を迎え入れ、ピアノ演奏と絵画の即興のコラボレーションを披露した。同年10月29日にロサンゼルス現代美術館のザ・ゲフィン・コンテポラリーで行われた、サンリオのキャラクター「ハローキティ」のコンベンション『Hello Kitty Con 2014』に出演。会場の特設ステージで、ハローキティのデザイナーである山口裕子から依頼を受けて制作したハローキティの公式テーマ・ソング「HELLO HELLO」(仮タイトル)を初披露した。2015年3月11日に、バラエティ番組『中居正広のミになる図書館』でのX JAPANに関わる内容が放送された回について、「たまたま見てしまいました。真実と異なる事や、編集等、色々と思う事があり、少し傷つきました」と発言し、さらに「今ファンのみんなをがっかりさせないように世界に向かって命がけで頑張っています」との意思表明を示した。。2015年5月30日、31日に開催されたGLAYの東京ドーム公演『20th Anniversary Final GLAY in TOKYO DOME 2015 Miracle Music Hunt Forever』の2日目にスペシャル・ゲストとして登場し、YOSHIKIが1994年にプロデュースを手がけたGLAYのメジャー・デビュー曲「RAIN」で共演した。YOSHIKIは「作詞には作曲と同じ、もしくはそれ以上の時間を僕は割いている」とし、自身の歌詞については「死について語っている詞が多いと思う」と語っている。一方で歌詞の悲観性や自虐性については、「ポジティヴなエネルギーってネガテヴィティによって引き立つと思うんですよ」「悲しみなり毒をずっと表現したときにポッと美を出すと、それがすごいポジティヴに感じる」と、肯定的なエネルギーを引き立たせるための逆説的なアプローチであると説明している。最初に作詞をしたのは高校時代で、Xの「I'LL KILL YOU」であった。作風によって作詞のクレジットで「五十嵐美由姫」「橘朋実」「白鳥瞳」「白鳥龍」などのペンネームを使うこともある。フリーライターの久利生たか子は2002年の著書『X JAPANの詩─青い薔薇の涙─』の中で「妥協を許さない感情描写」をYOSHIKIの詞の特色としてを挙げ、「無駄のないところに美しさが存在し、読み手の想像力が存在したところに、詞に対しての魅力を感じることができる」と評している。評論家の町口哲生は「ドラマティックだが意外と語彙が少ない。その『少なさ』が逆にポリフォニック(多声的)な効果を発揮し、ミニマムな言葉遣いでマキシマムな感動を生み出す」と評している。クラシック、ロック、ポップなどのジャンルに関わらず、作曲をするときは楽器を使わずにドラムを含めた全てのパートを直接譜面に書いてる。その理由として「譜面だけで書くと制約がないんです。ピアノで作ると、指グセがあったりと制約ができてきちゃう。それはギターも一緒ですけど、譜面だとそれが無いんです。だから逆に譜面の方が自由にできる」と語っている。絶対音感を持っており、ペンと譜面さえあれば作曲ができるため移動中に飛行機の機内で作曲することもある。インディーズ時代にライブ・ハウスで曲と曲の合間に冗談のつもりでピアノでクラシックを弾いたところ、その意外性が思いのほか受け、それをきっかけにピアノとギターやドラムなどを絡めようと意図的に作曲するようになった。X JAPANの楽曲にピアノを取り入れたのは1作目のアルバム『Vanishing Vision』の収録曲「ALIVE」が最初で、ベートーヴェンの「月光ソナタ」のフレーズが使われている。ハードなサウンドの中にピアノを取り入れる手法はX JAPANの楽曲の特徴の1つになっている。1991年に小室哲哉とV2の制作活動をするまで、作曲の際に頭の中で鳴っていた楽器はドラム、ベース、ギター、ストリングスだけであったが、それ以降は「"電気の音"も鳴るようになった」と語っている。1992年からジャズ・ピアノとオーケストレーションを学びを始め、ディック・マークスやシェリー・バーグに師事。ストリングスへの理解を深めるためにヴァイオリンにも挑戦した。ジョージ・マーティンとのジョイント・プロジェクトとして1993年に発表したアルバム『Eternal Melody』の制作では、オーケストレーションについて詳密に理解していなかったために自分の意見が説明できず悔しい思いをしたが、「真のレジェンドからオーケストレーションについて多くのことを学んだ」とし、ジョージ・マーティンとの仕事が大きな影響になったと語っている。キッスの1994年のトリビュート・アルバム『トリビュート -KISS MY ASS-』に収録された「ブラック・ダイヤモンド」のピアノ協奏曲アレンジでは、初めて1人でオーケストレーションを全て手がけた。YOSHIKIは「オーケストラと仕事をするようになって以降は、X JAPANなどのロック・バンドにおいても「小規模なオーケストラ」という視点で作曲するようになった」と語っている。最も影響を受けた3作のアルバムを挙げてもらう産経新聞のインタビューで、YOSHIKIはキッスの『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』、レッド・ツェッペリンの『レッド・ツェッペリン IV』、アイアン・メイデンの『キラーズ』の3作を挙げた。アイアン・メイデンに関しては初期の作品のパンク性に影響を受け、その後パンク・ロックに「もともと聴いていた音楽に戻れないぐらい」のめり込んでいくきっかけになった。1984年に上京してXのバンドのメンバーを探していた時期は、エクスプロイテッドやカオスUK、ディスチャージ、G.I.S.M.、GAUZEなどイギリスや日本のパンク・バンドに傾倒していた。影響を受けたドラマーにはキッスのピーター・クリスを挙げ、11歳の時にキッスの日本武道館公演でクリスを見てドラマーを志したと語っている。そのほか、好きなドラマーとして村上秀一と青山純を挙げている。初めて購入したレコードであるシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調「運命」が収録されたアルバムには、ロック・グループと同じぐらいの影響を受けたという。YOSHIKIが自身の半生を描いたという楽曲「ART OF LIFE」では、そのシューベルトの「未完成」のフレーズが使われている。影響を受けた作曲家にはバッハを挙げ、あえて影響を匂わせた作品を入れたり対旋律などの手法を引用していると語っている。X JAPANの1989年のアルバム『BLUE BLOOD』に収録されている「ROSE OF PAIN」では、バッハの「小フーガ」のフレーズが随所で使われている。1997年のインタビューではシェーンベルクなどの近現代の作曲家に最近は影響を受けていると語っており、自身の人生に大きな影審を与えた曲を中心に選曲したクラシック音楽のコンピレーション・アルバム『Yoshiki Selection II』(1996年)には、シェーンベルグの弟子にあたるベルクの『抒情組曲』も収録された。最も好きなクラシックの作曲家としては、チャイコフスキーとモーツァルト、交響曲ではベートーヴェンとシューベルト、ピアノ協奏曲ではラフマニノフ、ピアノ独奏曲ではショパンを挙げている。好きなピアニストとしてジョージ・ウィンストン、キース・ジャレット、ホロヴィッツ、三柴理を挙げている。キース・ジャレットに関しては1975年のライブ・アルバム『ザ・ケルン・コンサート』に影響を受け、ジャズの理論やインプロビゼーションを学び始めるきっかけになった。ダンス・ミュージックにおいて最も影響を受けたのはトリップ・ホップで、Violet UKにおいてダンス・ミュージックの要素が強まるきっかけとなったと語っている。特に影響を受けたトリップ・ホップのアーティストにマッシヴ・アタック、トリッキー、ポーティスヘッドを挙げている。1990年までのステージではスペースの都合でアコースティック・ピアノが使えなかったため、ローランドのエレクトリック・ピアノ「RD-1000」を使用していた。ピアノ以外にもチェンバロなどに音色を変えて演奏する事も多かった。1991年以降のステージでは、外装部分が透明アクリル樹脂で出来ているカワイのクリスタル・ピアノ「CR-40A」を主に使用している。東京の自宅では特注したMIDI仕様のCR-40Aを置いている。2011年のX JAPANのヨーロッパ・ツアーと中南米ツアーではCR-30を使用した。1993年にはカワイのフルコンサート・ピアノ「GS-100」をベースにたシグネーチャー・モデルが製作された。幼少から自宅のカワイのピアノで練習をしていたことからカワイのタッチに慣れており、レコード会社とエンシノの自宅にもそれぞれカワイのピアノを置いている。1997年のテレビ出演時にはカワイのシンセサイザー「K5000W」を使用した。レコーディング・スタジオには、カワイ・RX、ヤマハのフルコンサート・ピアノとMIDIピアノ、スタインウェイのフルコンサート・ピアノが置かれている。スタインウェイのフルコンサート・ピアノはカーネギー・ホールで使われていたものを買い取ったもので、著名なアーティストのオートグラフが数多く入っている。MIDIマスター・キーボードには、コルグ・T1やドイプファー・LMK4+などを使用している。長い時間手首に負担がかかる角度でスタジオのキーボードを弾いて以来、慢性的な腱鞘炎を患っており、8時間を超えるピアノの練習にはドクターストップがかかる。TAMA(星野楽器)の2バス (16"x24

出典:wikipedia

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