テルニ()は、イタリア共和国ウンブリア州南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約10万9000人の基礎自治体(コムーネ)。テルニ県の県都である。ウンブリア州では州都ペルージャに次ぐコムーネ人口を有する。古代に起源を持つ都市であるが、19世紀以後に製鉄所を中心に工業都市として発展し、「鉄鋼の町」()、「イタリアのマンチェスター」()と称された。このために、第二次世界大戦では爆撃の被害を受けた。21世紀初頭の現在も重要な産業都市であるとともに、歴史・文化的遺産や自然環境を生かした観光業も発展している。また、都市の守護聖人である聖ウァレンティヌス(聖バレンタイン)にちなみ「恋人たちの町」()という名でも称される。テルニ県南東部のコムーネ。ヴィテルボから東北東へ約47km、州都ペルージャから南南東へ約64km、ラクイラから西北西へ約67km、首都ローマから北北東へ約75kmの距離にある。隣接するコムーネは以下の通り。この地方には青銅器時代からが暮らしていた(このことはいくつかのネクロポリスの発掘からわかる)。この都市も紀元前7世紀ごろに、ウンブリ人によって建設されたと考えられる。紀元前3世紀にはローマ人(共和政ローマ)によって征服され、まもなくフラミニア街道上に位置する重要なムニキピウムとして位置付けられた。ローマ人はこの都市を「二つの川の間に」を意味する「インテラムナ」 と名付けた。ローマ帝国時代、この都市には水路、市壁、野外劇場、神殿、橋など、いくつかの建物が建設された。3世紀にインテラムナの司教を務め、殉教した人物にウァレンティヌスがいる。のちに聖人とされた「聖ウァレンティヌス」の伝承には、テルニのウァレンティヌスも含め複数の殉教者たちのイメージが重なっているとされるが、テルニは聖ウァレンティヌスを都市の守護聖人としている。755年にランゴバルド人がこの地を征服すると、テルニはこの地方を代表する都市という位置を失い、(スポレートの後塵を拝して)スポレート公国で第二の都市という位置づけになった。1174年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)に従うマインツ大司教クリスチャン1世の軍勢によって略奪を受けた。13世紀には、アッシジのフランチェスコがしばしば訪れ、祈りの場としている。14世紀にテルニには、独自の都市憲章を制定した。1353年からは市壁が拡張され、新たな運河が開かれた。中世後期のイタリアの都市国家の多くと同ように、テルニでも教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の党派に分かれてしばしば流血の抗争が行われた。のちに、テルニにおける両者は Nobili と Banderari という党派になった。その後、テルニは教皇領となる。近代以後「鉄の町」として知られるテルニであるが、1580年にはモンテレオーネ・ディ・スポレートの鉄鉱山で産する鉄鉱石を用いた製鉄が行われており、伝統的な産業としての性格も持つ。17世紀には疫病や飢饉による打撃を受けた。19世紀、テルニは豊富な水源を利用できることもあり、産業革命(第二次産業革命)において主導的な役割を果たした。新しい産業として鉄鋼業が成長したほか、兵器製造、製麻(ジュート)、羊毛などの工場があった。 1927年、テルニは県都となった。第二次世界大戦中、重要な工業都市であったテルニは連合国軍による爆撃の格好の対象となり、108回に及ぶ空襲が行われた。しかしながら、戦後の都市の産業復興は速やかであり、「イタリアのマンチェスター」と呼ばれた。テルニには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。テルニは3つの重要な産業の拠点がある。一つはAST(ティッセンクルップグループの一社)のステンレス鋼製鋼所で、テルニ東部に広大な敷地を持つ。また、テルニの西部にはポリマー製造工場が集まった地区がある。もう一つ、テルニ研究所と呼ばれる新産業研究機関が置かれ、グリーン・エネルギーの研究・開発を行っている。近郊には(落差165m)がある。市域に高速道路は通っていないが、SS675はスーペルストラーダと呼ばれる高規格国道であり、アウトストラーダ A1とオルテで接続している。テルニを代表する駅はテルニ駅である。
出典:wikipedia
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