ピアチェンツァ()は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約10万人の基礎自治体(コムーネ)。ピアチェンツァ県の県都である。ポー川に面した都市である。古代ローマ時代に築かれた兵営都市プラケンティアを起源とし、エミリア街道とポストゥミア街道が接続する交通の要衝として発展した。ピアチェンツァ県北部に位置する、ポー川南岸の都市。対岸はロンバルディア州である。クレモナから西南西へ約27km、パルマから西北西へ約57km、ミラノから南東へ約61km、州都ボローニャから西北西へ約144kmの距離にある。隣接するコムーネは以下の通り。ローマ人が定住する前、一帯にはケルト人とリグリア人が住んでいた。エトルリア人がヒツジの内臓を神に捧げる習わしを持っていたことがよく知られている。青銅でできた肝臓の彫刻は『ピアチェンツァの肝臓』()と呼ばれており、1877年に完全なかたちで近郊で発見された。多神教信仰を示しているとされる。これは腸朴占い師()の習慣につながっていた。ピアチェンツァはケンソルたるガイウス・フラミニウスの尽力により紀元前218年にできた(言い伝えによれば5月31日である)。共和政ローマの最初の軍事植民地としてである。ラテン語ではプラケンティア()と呼ばれていた。プラケンティアと近郊の植民地クレモナには、6,000人のラテン人植民者が送られた(ローマの騎士階級が多かった)。市ができたのと同じ年、プラケンティア地域でハンニバルがトレビアの戦いに勝利したが、市民はカルタゴ勢力に抵抗した。その後数年、市域は水浸しになり、川港がポー川岸に建設された。プラケンティアは穀物、オオムギ、キビ、羊毛の生産で繁栄した。幾度か略奪され荒廃しても、市は常に復興し、6世紀にはプロコピウスが『エミリア街道沿いの第一の都市』("Urbs Aemilia Princeps")と称した。古代後期のプラケンティア(c. 300-700/800 AD)は、キリスト教の伝播が特徴である。そこには幾人かの殉教者の存在があった。現在の市の守護聖人アントニヌス(聖アントーニオ)は、かつてローマ軍団に所属しており、彼はプラケンティアのキリスト教化を進めたが、ディオクレティアヌス帝時代の迫害で殉教した。ゴート戦争(東ローマ帝国と東ゴート族の間で争われた)の間、プラケンティアは略奪にあった。短期間だけ東ローマ帝国の都市となり、その後ランゴバルド人に征服され、公国の首都が置かれた。9世紀にフランク王国に征服されてから、神聖ローマ帝国とローマとをつなぐフランキゲナ街道()沿いにあったことに助けられ、ピアチェンツァは復活し始めた。1000年以降、人口とその重要性がさらに増した。その時代、封建的領主から進取階級へ次第に権力が移行しており、田園地帯の封建階級も同様であった。1095年、ピアチェンツァでピアチェンツァ会議が開催され、第一次十字軍の結成が宣言された。1126年以降、ピアチェンツァは自由中世都市となり、ロンバルディア同盟の重要な一員となった。同盟に属したことで、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対する戦いに臨み、その後レニャーノの戦い(、1176年)に加わった。近隣のコムーネ、クレモナ、パヴィア、パルマと戦って打ち勝ち、ピアチェンツァは領土を広げた。ピアチェンツァはジェノヴァとの通商路も管理下においた。そこには既に、マラスピーナ伯領とボッビオ司教座からやってきた初のピアチェンツァ人銀行家らが定住していた。13世紀には、皇帝フリードリヒ2世との戦いが不成功であったにもかかわらず、ピアチェンツァはポー川流域ロンバルディア地方の要塞をどうにか獲得した。農業と貿易が数世紀に渡って繁栄し、ピアチェンツァはヨーロッパ有数の裕福な都市の一つとなった。これは多くの重要な建築物の建設と、都市計画の総括的校訂に反映していた。都市の支配を巡る争いは、中世イタリアのコムーネの大多数と同じように、13世紀半ばにはありふれたものだった。スコッティ家、パッラヴィチーノ家()、アルベルト・スコト(1290年-1313年)がこの時代に権力を握った。スコトの支配は、ミラノのヴィスコンティ家がピアチェンツァを獲得したときに終わった。ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続いた。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはピアチェンツァの法令を改訂し、パヴィア大学を市に再配置した。ヴィスコンティ家に替わってミラノの支配者となったスフォルツァ家が、1499年までピアチェンツァを支配した。16世紀の硬貨には、『ピアチェンツァは繁栄する』("Placentia floret")とモットーが刻まれている。市は事実さらに発展していった。主な要因はその田園地帯からもたらされた生産物であった。16世紀中には、新しい市壁の列がたてられた。1521年までピアチェンツァはフランス支配を受け、その後、事実上の教皇領の一部としてローマ教皇レオ10世に支配された。最終的に1545年、ファルネーゼ家が興したパルマ及びピアチェンツァ公国に含まれることとなった。 ピアチェンツァは、オッターヴィオ・ファルネーゼがパルマへ移すまで公国の都であった。オドアルド1世(在位:1622年-1646年)統治下は最も圧政的な時代であった。30,000人いたピアチェンツァ市民のうち、飢饉で6,000人、ペストで13,000人が死んだ。都市と周辺の田園地帯は、強盗とフランス軍兵士によって荒らされた。1732年から1859年にかけ、パルマとピアチェンツァはブルボン=パルマ家に支配された。18世紀には公爵家はパルマに暮らし、スコッティ家、ランディ家、フォリアーニ家といった貴族が所有する大邸宅が、ピアチェンツァに建てられた。1802年、ナポレオン軍はピアチェンツァをフランス帝国に併合した。若いピアチェンツァ人新兵たちは、ロシア、スペイン、ドイツとの戦いの戦場に派遣された。その最中、市は非常に多くの芸術作品をフランスに強奪された。現在、これらは多くのフランスにある美術館に展示されている。オーストリアとクロアチアの軍が1848年までピアチェンツァを占領した。住民投票が、リソルジメントに加わる都市となるきっかけをつくった。総投票37,585票のうち、37,089票が統合に賛成したのである。ピアチェンツァは、王家により『イタリア統一化の最初の産物』("Primogenita dell'Unità di Italia")を宣言された。ピアチェンツァ人は、南部イタリアの独立闘争を戦うため出兵したジュゼッペ・ガリバルディ軍の一団に加わっていた。 1865年6月、最初の鉄道橋が開通した。1891年、最初の労働者会議がピアチェンツァで開催された。第二次世界大戦中、ピアチェンツァは連合国側の激しい爆撃を受けた。ポー川に架かる重要な鉄道橋、鉄道駅、歴史地区が破壊された。丘陵地帯とアペニン山脈には、パルチザンが活動していた。1945年4月25日に戦争が終わると、イタリア抵抗運動による全パルチザン暴動が勃発、4月29日には市にブラジル遠征軍が到着した。1996年、オスカル・ルイージ・スカルファロ大統領は、ピアチェンツァに戦争時の勇気を讃える金メダルを贈った。ピアチェンツァには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。ピアチェンツァは、イタリアで芸術都市の名声が高いものの一つである。多くの歴史ある宮殿や邸宅、素晴らしい庭園を誇っている。ピアチェンツァを本拠地とするサッカークラブとして、ピアチェンツァ・カルチョがある。
出典:wikipedia
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