チェゼーナ()は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約9万6000人の基礎自治体(コムーネ)。フォルリ=チェゼーナ県の県都の一つ(もう一つはフォルリ)で、県内ではフォルリに次ぐコムーネ人口を有する。古代以来の歴史を持つ都市で、ルネサンス期にはマラテスタ家のもとで繁栄し、ヨーロッパ最古の市民図書館とされるマラテスティアーナ図書館が開設された。18世紀から19世紀にかけて3人の教皇を輩出している。フォルリ=チェゼーナ県東部に位置する。フォルリと並んで、フォルリ=チェゼーナ県の県都である。隣接するコムーネは以下の通り。RAはラヴェンナ県所属。チェゼーナはもともとやエトルリア人の町で、 の名で呼ばれていた。ガリア人が短期間支配下に置いたのち、紀元前3世紀にローマ人(共和政ローマ)の手に渡った。戦略的に重要な兵営都市としての役割を果たし、マリウスとスッラの戦争に際して破壊された。大プリニウスはチェゼーナの葡萄酒が最も美味であると言及している。中世初期には、東ローマ帝国のと、ランゴバルド王国の国境の都市であった。754年にフランク王国のピピン3世がこの地を征服し、ローマ教皇に寄進された(ピピンの寄進)。教会領となったのちは教皇直轄領になったりラヴェンナ大司教領になったりが繰り返され、12世紀後半には短期間ながら市民共和国が成立(1183年 – 1198年)、その後は教皇と神聖ローマ皇帝の間で長きにわたる争奪が繰り広げられた。オルデラッフィ家が短期間支配したが、1357年にはアルボルノス枢機卿率いる教皇軍による長い攻囲戦の末にその支配は終焉を迎えた。この戦いでは、チア・オルデラッフィ(フォルリの僭主フランチェスコ2世の夫人)の奮戦が伝えられている。中の1377年、コムーネ(市民共同体)はささやかな反乱をおこした。この反乱はロベール・ド・ジュネーヴ枢機卿(のちの対立教皇クレメンス7世)の指揮の下、傭兵隊長ジョン・ホークウッド(ジョバンニ・アクート)が率いるブルトン人部隊によって鎮圧された。この際、教皇グレゴリウス11世のとしてふるまったジョン・ホークウッドは、2500人ないし5000人と言われる市民を殺害した。当時の戦争法でも残虐行為とみなされたこの一件は非難を浴び、司令官であったロベールは「チェゼーナの虐殺者」()の汚名で呼ばれることとなった。その後、この都市は教皇ウルバヌス6世からガレオット1世・マラテスタに与えられた。マラテスタ家がこの都市を統治した1379年から1465年にかけて、チェゼーナは復興し、繁栄を遂げた。都市を見下ろす丘の上には城が再建された(マラテスティアーナ城)。「マラテスタ・ノヴェッロ」()ことドメニコ・マラテスタが城の近くに開設したマラテスティアーナ図書館は、ルネサンス期の図書館の好例であり、多くのすぐれた写本を所有した。1465年にノヴェッロが没すると、チェゼーナは再び教皇領に戻った。1500年にはチェーザレ・ボルジアがこの都市を手に入れ、短命に終わった彼のロマーニャ公国の首都となった。その後のチェゼーナは、教皇領の地方都市の一つとなった。18世紀後半から19世紀前半にかけての教皇を長く務めたピウス6世とピウス7世がチェゼーナの生まれであり、またピウス8世がチェゼーナ司教を務めていたことから、「三教皇の都市」()の名で呼ばれた。ピウス6世(在位:1775年 - 1799年)・ピウス7世(在位:1800年 - 1823年)の時代はナポレオン戦争の時代である。当地はフランスによって占領されてチザルピーナ共和国(のちイタリア共和国を経てイタリア王国)の一部となり、数多くの修道院や教会が特権を剥奪された。ピウス6世の友人で教皇の座と名を継いだピウス7世は、皇帝ナポレオンと激しく対立し、ナポレオン没落後は教皇国家の復活に手腕を発揮した。19世紀後半、市民の中にはイタリア統一運動で顕著な役割を果たす者もいた。 第二次世界大戦において、アペニン山脈に築かれたに近いこの都市は、激しい爆撃を受けた。1992年にフォルリ県からリミニ県が分割された際、この都市はフォルリと並ぶ県都に位置付けられ、県名も「フォルリ=チェゼーナ県」に改められた。チェゼーナには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。サッカークラブチームACチェゼーナの本拠地である。ホームスタジアムはスタディオ・ディノ・マヌッツィ。1940年設立されたクラブで、1970年代以来しばしばセリエA(1部リーグ)への昇格と降格を繰り返している。2013-14シーズンはセリエB(2部リーグ)に属している。
出典:wikipedia
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