日東交通株式会社(にっとうこうつう)は、千葉県木更津市・君津市・富津市・袖ケ浦市で主に事業を展開するバス会社。かつては、房総半島南部一円にエリアを持っていたが、1994年(平成6年)10月に鴨川日東バス、館山日東バス、天羽日東バスを分社化し、現在の事業エリアとなった。その際、館山市にあった本社を木更津市へ移転している。 ただし、高速バス部門の一部と貸切部門は分社化せず、本体に高速営業所、観光営業所として存在している。(詳細後述)一般路線・貸切バスのほか、新日鐵住金君津製鐵所・東京電力富津火力発電所関連の特定輸送も手がけている。大正初期当時の南房総は、県外との交通機関は海路のみで、東京に着いてから各地へ旅をするという「陸の孤島」同然の半島だった。鉄道線が1912年(大正元年)8月に木更津駅まで、1913年(大正2年)6月に勝浦駅まで、それぞれ開通するまで南房総の陸上交通は人馬車が唯一の交通機関だった。勝浦・木更津両駅から鉄道線が延長されると同時に、1913年(大正2年)、日東交通の前身である旅館・万歳館が自動車部を設立し、千葉県内における最初の許可を得て、木更津町(現:木更津市)に乗合自動車の運行を開始した。運行に際しては、イギリス大使館より払い下げた1910年型ダラック5人乗り乗用車が使用された。ちなみに当時の運行許可証には「進行速度は市街地では8里(時速約30キロ)以内、その他は10里(時速約40キロ)以内」や「人馬車との離合の際は徐行や停車をすること」などといった条件が明記されていたという。その後、三日月自動車や安房自動車、房州自動車などといった数社の乗合自動車が設立された。1929年(昭和4年)4月、安房鴨川駅で房総東線(現:JR外房線)と房総西線(現:JR内房線)が結ばれ、房総半島を1周する鉄道線が開通した。こうして県内外の交流が深まった一方で、船舶による旅客輸送は撤退の一途をたどった。内房地区は避暑地として栄え、日蓮の聖地である外房地区は観光・信仰のメッカとして、県内外より来訪する観光客が増加した。その甲斐もあり、乗合自動車は団体・一般旅客それぞれの輸送で繁栄した。しかし、1923年(大正12年)に発生した関東大震災を境に経済恐慌が起こり、不況の波は南房総の地にも押し寄せる。ほとんどが弱小基盤にあった企業は、不当競争と少ない資本に耐えることが出来ず、合同会社を設立するまでに至ったのである。1927年(昭和2年)3月、安房自動車(本社:北条町(現:館山市))・房州自動車(本社:安房郡白浜村(現:南房総市白浜町))が合併し、安房合同自動車が誕生した。現在の日東交通の創立である。創立当初は、合併により不当競争は終息したものと思われたが、不況の波は国内経済を行き詰まらせ、安房合同自動車も経営難に陥った。この時、予想外の事態が発生する。1933年(昭和8年)、鉄道省は白浜町・千倉町(現:南房総市千倉町)など7町村を基盤とする省営自動車の運行を決定する。鉄道のない当該地域は安房合同自動車における『ドル箱路線』を擁していたが、当時の鉄道省は何事もなく重複区間で乗合自動車の運行を開始した。こうして重点路線の廃止という憂き目を見た安房合同自動車は、保田(現:鋸南町)・平群(現:南房総市富山地区)各方面への山間路線新設などで強化を図り、この窮地を乗り越えた。この期間は、苦難の連続だった一方で会社の基盤を造る期間でもあった。1937年(昭和12年)、日中戦争勃発から終戦(1945年(昭和20年)8月)までの間、木更津・館山両市中心に軍都として、海軍航空隊基地などの大規模な施設が造られた。あわせて人口も増加し、会社としても繁栄した。しかし、国家総動員法が施行されると共に、1938年(昭和13年)にガソリン消費規制令が発令され、戦況が進むと同時に、車両・タイヤなどといった重要物資はすべて統制対象になってしまう。翌年の1939年(昭和14年)から、ガソリンに替わって木炭・薪を燃料とする「木炭バス」が運行の主体となる。1941年(昭和16年)より太平洋戦争に突入し、運行に不可欠な物資は徐々に失われ、乗合自動車業界においても厳しい戦争経済の状況へと陥った。一部の従業員は兵士として招集され、車両資材の調達もままならない状態となり、実働車両がわずか5両という日も珍しくはなかった。旅客輸送における責務を果たすために、この難局を放任することは許されなかった。1943年(昭和18年)、安房合同自動車・君津合同自動車・外房内湾自動車の三社は、政府各方面からの要請を受け、合併協議を開始し、事態の収拾に取りかかったが、各社の資本構成や合併条件などの問題から、協議は暗礁に乗り上げてしまう。三社は、この非常事態収拾に対する合議の結果、安房郡出身の実業家である中村庸一郎(当時、衆議院議員)に協力を打診。中村も事の重大性に理解を示し、三社の合併準備も進んだことから、郷土の交通事業のためにと積極的に行動を起こしてゆく。協議開始時に直面していた資金面・条件面の問題も三社の要望どおりに解決し、多額の資本注入を得て、協議が無事成立した。まずは安房合同自動車と君津合同自動車が合併、翌年の1944年(昭和19年)7月に外房内湾自動車を吸収合併して、三社の合併が完了した。その後、日東交通に社名を変更し、館山市に本社を構え、新たに発足した。時代は平成に入り、昭和40年代後半から続く、利用客の減少に伴う赤字の削減を目指し、沿線自治体の支援の下で、不採算路線の縮小や廃止を最小限に抑えて、今日まで運行を続けてきた。しかし、乗客は全盛期の1969年(昭和44年)に比べて半分以下まで落ち込み、このままでは路線を廃止せざるを得ない状態に陥っていた。そこで、同社は旅客数の少ない鴨川・館山・湊管内の3営業所(路線バス部門)を、全額出資の子会社(鴨川日東バス・館山日東バス・天羽日東バス)として、1994年(平成6年)に分離・発足させ、各社の収入に合った運営で路線の維持を図ることに決めた。1997年(平成9年)12月、同社に転機が訪れる。東京湾アクアライン開通により、廃止されたマリンエキスプレス・木更津 - 川崎航路の代替として、木更津駅と川崎駅・横浜駅・羽田空港各方面を結ぶ高速バスの運行を開始した。同社における高速バス事業の参入である。開業後1ヶ月間は通勤客の利用が多く、各線とも乗車率は6割を超えた。アクアラインの開通で、木更津地域と首都圏の間を約1時間でアクセスできることから、その後は、木更津・君津・鴨川・館山の各地域と首都圏などを結ぶ高速路線を次々と開業していった。こうした様々な経営努力が功を奏し、2005年(平成17年)には、累積赤字ゼロを成し遂げた。近年ではノンステップバスを導入し、バリアフリー化をさらに進めていることに加え、2015年(平成27年)に入り、交通系ICカードサービス・PASMOの導入や、同社前身の万歳館自動車によるバス路線運行開始から1世紀を迎えたことを記念し、初のバスイベントとなる「WakuWaku日東バスフェスタ」を開催するなど、沿線利用客などへの利便性・PRにも力を注いでいる。〈 〉内は共同運行会社。1997年(平成9年)12月の事業参入から2014年(平成26年)10月現在までに、以下の16路線が運行されている。発着地域ごとに3ケ所の営業所による営業体制を採っている。各線共通で、平日は通勤の足として、休日は買物や観光の足としての利用が多い。また、同社における全体収入は約6割を高速バスが占めており、更なる利用客増加を計るために、高速バスとホテル宿泊をセットにした企画商品の発売などの施策も行っている。ローカル路線が主体となっている。東京湾アクアライン開通後は京浜地区へ商圏が移ったことで、駅周辺の商業施設が衰退の一途をたどると同時に、利用客も減少している。一方で、近郊の宅地造成が進むごとに既存の路線を再編するなど、バス路線の整備にも力を注いでいる。2012年(平成24年)12月に平田車庫を廃止したことにより、現在は3ケ所の営業所・1ケ所の車庫の体制となっている。※運行系統・改廃事項など詳細は各営業所の記事を参照のこと。かつて運行していた一般路線バスの廃止代替バス(21条バス)に端を発する。同社で車両を用意する運行形態となっている。国内4メーカーを揃えている。近年導入された車両を以下に記すが、在籍車両など詳細は各営業所の記事を参照。かつては、ツーステップ・前後扉車(後は引戸)が主流だったが、当時の交通バリアフリー法施行に関係して、現在はノンステップないしワンステップ・前中扉車(中は折戸ないし引戸)が主流となっている。また、2000年代後半以降はLED式の行き先表示を採用した新造車を導入している(併せて、既存車もLED式に交換された)。塗装は君津運輸営業所所属車と木更津運輸営業所の一部車両を除き、昭和20 - 30年代に採用された伝統的なもの(マルーン色・草色・白)となっている。君津運輸営業所の車両と木更津運輸営業所の一部車両は、貸切車との共通塗装となっている。車載機器については、整理券発行機・運賃箱は小田原機器製、デジタル式運賃表示器はレシップ製、車内放送装置・LED式方向幕はクラリオン製のものをそれぞれ採用している。ハイデッカーの前扉車(折戸ないしスイングドア)が在籍している。中には化粧室付きや貸切格下げ車も在籍していることから、路線バスと同様に仕様によりバリエーションが豊富である。また、行き先表示は当初幕式だったが、2001年(平成13年)以降の新造車はLED式に変更されている(併せて、一部の既存車も車体更新時にLED式に交換された)。塗装は貸切バスと同一である(後述参照)。車載機器については、整理券発行機・運賃箱は小田原機器製、車内放送装置・LED式方向幕はクラリオン製のものをそれぞれ採用しているが、一部はゴールドキング製の方向幕や一水製作所製の運賃箱を採用した車両もある。主に自家用仕様(前扉車)が在籍し、塗装は貸切バスと同一である(後述参照)。貸切車は、平成時代初頭まで数多く在籍していたが、2000年(平成12年)の道路運送法の改正に伴う規制緩和により、新規の貸切バス事業者の増加で競争が激化し、減車を余儀なくされ、現在在籍する貸切車は少数にとどまっている。全車ハイデッカーの前扉車(折戸ないしスイングドア)が在籍する。ちなみに90年代前半に導入された車両(富士重工業・17型Mボディ架装)は『210Special(日東スペシャル)』という愛称を持っていた。2015年(平成27年)12月には、化粧室付きの特別仕様車を導入し、同月より同社主催のバスツアーで稼働を始めている。現在もスーパーハイデッカー仕様は導入されていない。塗装は昭和50年代後半に採用された、路線バスカラーを近似化したもの(赤・黄緑・アイボリー)となっており、側面等には『NITTO KOTSU』と社名がローマ字で表記される。また、貸切車と高速車の差別化を図るため、フロントマスクの配色に変更がなされている。コミュニティバス(代替バスも含む)は、専用の小型車両が在籍するが、ノンステップ仕様もしくは車椅子用リフト装備など、バリアフリー化(乗降のし易さ)に寄与している。塗装は各自治体独自のデザインが採用されているが、中郷富岡線など一部車両は貸切バスと同一の塗装となっている(先述参照)。
出典:wikipedia
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