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諏訪湖

諏訪湖(すわこ)は、長野県岡谷市、諏訪市、諏訪郡下諏訪町にまたがる湖。河川法では、天竜川(一級河川)水系の一部として扱われる。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。1922年(大正11年)2月11日、日本初のフィギュアスケート公式試合が下諏訪リンクで行われた。新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)である。また糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地で、諏訪湖を取り囲むように諏訪湖南西側を諏訪湖南岸断層群、諏訪湖北東側には諏訪断層群がある。「かつて、諏訪湖からの水は東の釜無川方面に流れていたが、八ヶ岳からの噴出物によって堰き止められ、南下するようになった」との説がある。また、時代と共に流入河川からの土砂の堆積や、護岸工事などにより面積は徐々に縮小している。長野県中部の諏訪盆地に位置する。面積は長野県内最大の湖沼。平均滞留時間は3日から120日(平均40日程度)と変動が大きく湖水の水質は流入河川からの流入量(流域の降水量)と水質変動の影響を強く受ける。従って、歴史的に流域の暮らしの変化により水質も大きく変化してきた。諏訪湖はかつて非常に水質のよい湖であり、江戸期には琵琶湖や河口湖からの蜆が放流され漁業も行われていた。しかし、戦後の高度経済成長期にかけて農地からの化学肥料由来の栄養塩類や生活排水などにより湖の富栄養化が進み、過栄養湖へと変化した。特に1970年代から80年代にかけては、ユスリカやアオコのミクロキスティス("Microcystis" )が大発生し湖面が緑色になり、悪臭が漂い発泡するなどといった環境悪化が見られた。水質悪化の要因は沢山あるが、流入河川が30を超え多いにも関わらず、流出河川が一つであり、かつ集水域が広く各流入河川の汚染物質が溜まり易い構造になっているからである。しかし、1979年(昭和54年)から一部供用開始し1993年(平成5年)全市町村共用となった流域下水道の整備事業などや市民による水質改善活動の結果、大幅に水質が改善されているが、昭和初期の姿を取り戻すまでには至っていない。浄化施設の顕著な効果はすぐには現れなかったが水質浄化の効果は徐々に現れ、1997年頃からは夏にアオコの発生が見られない年があったり、それまで大発生をしていたユスリカの発生が大きく減少したりするなど、水質浄化の影響を感じられる様になってきた。しかし、水質浄化に伴い生息生物相も変化し生態ピラミッドの底辺を構成する植物性プランクトン減少の影響は食物連鎖上位へも変化が及び、水草の増加、大型ミジンコの増加が報告されている。なお、ワカサギの減少と水質浄化の因果関係を示唆する報告もある。たとえば、水質浄化により透明度が上昇した沿岸では水草のヒシが繁茂し、ヒシの下部では水流が阻害され貧酸素水帯を形成する為、ヒシの除去も行われている。かつては毎年のように厚い氷が湖面をおおい、戦前には氷上での戦車の走行や航空機の離着陸の訓練まで行われていた。また、ワカサギの穴釣りをはじめ、アイススケートなども行われていたが、近年は全面氷結の頻度が減少している。また、氷も薄くなっており、スケートなどを行うのは危険を伴う。ワカサギの穴釣り以外に陸釣りをする釣り客、船釣り客が訪れる。昭和十年代までは諏訪湖がほぼ氷結しても東側7ヵ所の湖底源泉の湖上は氷結せず、湖上に7ヵ所の穴が開いて見えたことから湖底の源泉は七ツ釜と称されていた。源泉のひとつとして七ツ釜は現在利用されており、諏訪湖東岸に所在する諏訪湖間欠泉センター、湖畔公園足湯、また上諏訪温泉などに引かれている。冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると湖面の氷が昼夜の気温差に応じて膨張と収縮する為、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため「膨張」し湖面の面積では足りなくなるため、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる。プレッシャー・リッジも参照のこと。この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼ぶ。御神渡りが現れた年の冬に無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する拝観式が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが注進式は行われ、観測されない状態を「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ。平安末期に編纂された歌集『山家集』に「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること、1397年に室町時代に諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え『御渡注進状扣』に「当大明神御渡ノ事」とあることから、古くは平安時代末期頃には呼称があったとされている。御神渡りの記録は、古くは1443年から1681年迄の『当社神幸記(とうしゃしんこうき)』、1682年から1871年迄の『御渡帳(みわたりちょう)』があり、現在(2013年)まで毎年記録され続けている。一部欠損している年もあるが、2013年迄含めると約568年間のほぼ連続した気象記録であり世界的に貴重な資料であるが、時代によっては御神渡り発生の有無を盛り上がり現象の確認では無く氷の割れる音を聞いて観測していた可能性が指摘されるなど均質なデータとは成っていない。2006年(平成18年)1月10日、2004年以来2季ぶりに御神渡りが観測され、1月13日に拝観式が行われた。この観測日は、1904年(明治37年)および1927年(昭和2年)の1月9日に拝観式が行われたのに次ぐ2番目の早さである。3本の御神渡りが観測され、その隆起は最大で約60センチメートル、氷は厚いところで20センチメートルほどになった。このシーズンは、2005年(平成17年)12月には既に諏訪湖が凍結しており、さらに2006年1月に入ってから諏訪湖周辺では氷点下10度以下という厳しい寒さが続いたために、御神渡りの観測が早まったと見られている。昭和元年〜6年 8〜11年 13〜23年 25〜27年 29〜32年 34年 36年 38年 40〜43年 45年 49〜53年 55〜61年平成3年 10年 15〜16年 18年 20年 24〜25年諏訪湖のほとり、片倉館に近い温泉街の一角に、上諏訪温泉の間欠泉が噴出している。間欠泉に面しては平成2年に諏訪湖間欠泉センターという施設が建設され、間欠泉について解説プレートなどを用いて解説しているほか、一般客が間欠泉の噴出を見物することができるようになっている。同センターに隣接した公園内には温泉を利用した足湯の設備が無料で開放されており、間欠泉見物の時間待ちや散策の足休めとして足湯を利用する人々の姿が見られる。温泉掘削中の1983年に噴出した間欠泉は高さ50メートルほどまで自噴していたが、次第に弱まり、ついには自噴が止まった。そのため、現在は、コンプレッサーで圧縮空気を送り込むことで噴出している。諏訪湖の周囲は、上述の上諏訪温泉のほか下諏訪温泉、諏訪大社などの名所が点在する観光地となっている。諏訪湖では、毎年8月に打ち上げ数4万発を誇る諏訪湖祭湖上花火大会が開催され日本有数の規模をもつ花火大会として多数の観客を集めているほか、9月には全国新作花火競技大会も開催される。湖畔が公園として整備されている個所も多く、諏訪湖観光汽船からカメの形をした竜宮丸、白鳥型のすわん、諏訪湖園からは白鳥型の遊覧船が発着する。遊覧船の竜宮丸は日本で二隻しかない珍しい船である。他に、日本水陸観光が水陸両用バスを使用する湖上クルージングや、湖周辺の陸上観光を組み合わせたダックツアーを実施している。また公園の中には岡谷湖畔公園のように湖上に噴水が設置されている場所もある。湖の東側には1954年に花火の打ち上げ場として作られた人工島・初島があり、近年では冬期にイルミネーションの設置・ライトアップも行われている。また、初島には初島神社が建てられ、湖上を曳航する御柱祭も行われている。1918年の調査では21種の魚類の生息が報告されている。ただし、スナヤツメ、ハゲギギ、アカザ、ニゴイ、カワムツの5種は、1960年代以前に生息が確認されなくなった。カジカ、イワナ、シマドジョウは1980年には報告されていない。の16種が報告されている。1990年代後半からブルーギル("Lepomis macrochirus")、オオクチバス("Micropterus salmoides" )の生息が報告されている。なお、オオクチバスは1970年代に生息が報告されていたが、その後約20年間は報告が途絶えていた。移入魚の中には定着した魚種もあれば定着に失敗した魚種もある。特に、両側回遊型(降海繁殖様式)の魚種は天竜川にダムが建設され為、降河・遡上が困難となり定着していない。生息(繁殖)環境の適さないニジマス、ライギョは定着せず1970年以降、漁獲が無くなった。2000年代以降増加している魚種は、オオクチバス、ブルーギル、ウキゴリ。テナガエビ("Macrobrachium nipponense" )、スジエビ("Palaemon paucidens" )漁業権は諏訪湖漁業協同組合が有し漁獲だけで無くコイ、フナ、エビなどの放流事業も行つている。1960年代頃にはスジエビ、テナガエビ、貝類(主に琵琶湖由来のセタシジミ)、エビ、フナ、コイ、ワカサギを中心とした漁業が行われてたが、1970年頃までに行われたヒシ除去のための沿岸域の浚渫と護岸工事により貝類は激減しフナの漁獲も大きく減少し、コイの漁獲が増加した。諏訪湖で行われる漁業はワカサギが有名であるが、1915年(大正4年)に霞ヶ浦から移入されたもので、その後の諏訪湖の漁業の中心となった。漁獲量のピークは1976年(昭和51年)で、425tだったが、2005年(平成17年)には42.3tにまで減少している。このため冬の観光としての釣り客の減少や、ワカサギを商品にしている川魚店にも影響が出ている。2000年代以降ワカサギの獲量が極端に減少している。その減少の理由は、オオクチバスやブルーギルといった魚食性外来魚による捕食、魚食性鳥類カワアイサによる捕食、水質浄化による生物相の変化など様々な見解がある。更に全体の漁獲量(生産額)も減少しているが、減少の背景には消費者の淡水魚離れ、魚価の低廉化に伴う漁業者の漁獲意欲減退、漁業者の高齢化など数々の要因が指摘されている。採卵は2月下旬から5月末に実施する。諏訪湖に流入する8つの河川で、産卵のために遡上する親魚を捕獲し、卵と精子を採取し人工授精させる。2012年に行われた採卵では、前年より1億3000万粒少ない22億2000万粒であった。このうち11億6000万粒を県内外の湖沼に出荷し、残りを諏訪湖に放流した。採卵数の減少はここ7-8年続いているが、。この年の採卵数の減少には、3-4月に気温の低い日が多く、遡上の最盛期も平年より1か月遅い4月下旬にずれ込んだことも原因している。戦国時代に甲斐国の武田氏と信濃諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年(1542年)に武田晴信(信玄)は諏訪侵攻を行い、諏訪氏は滅亡し諏訪地方は武田領国化される。信玄は元亀4年(1573年)4月12日に信濃国伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で死去する(死没地を浪合・根羽とする説もある)。信玄の遺体は駒場もしくは甲斐の円光院で火葬され、天正4年(1576年)に甲斐の恵林寺で後継の勝頼により正式に葬儀が実施される。一方、『甲陽軍鑑』に拠れば信玄は死去に際して「自分の死を三年間秘密にせよ。その後、遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と遺言したという。このため諏訪湖には古くから信玄の水中墓伝説があった。『甲陽軍鑑』では他に勝頼がその子・信勝の陣代となることも遺命したとされ、諏訪湖に遺体を沈めた以外の点に関しては、文書上の所見がある。1986年(昭和61年)、国土地理院のソナーによる湖底地形調査では、湖底に一辺が25mとされる菱形の“物体”が発見された。これが信玄の水中墓ではないかとされ、信州大学、読売新聞、日本テレビなど複数の団体が10数年にわたって調査を行った。電磁波探知機により墓標のような立体が確認されたとも報道されたが、最終的には謎の菱形は湖底の窪地の影であるとの結論が出された。しかし、問題の菱形が自然にできたとは思えない程はっきりとした形をしており、湖底は泥が深く目視による実地調査が困難であることから、水中墓説を支持する声は現在でも多い。愛の疾走(三島由紀夫) - 1962年江戸時代には諏訪湖は名所として知られ、江戸後期には浮世絵師の葛飾北斎が天保元年(1830年)から天保6年(1834年)にかけて刊行した連作『冨嶽三十六景』や、同じ天保年間刊行の『景勝奇覧』において諏訪湖から見える富士山を描いている。また、同じく浮世絵師の歌川広重は天保8年(1837年)から翌天保9年の『諸国名所』、嘉永5年(1852年)刊行の『不二三十六景』「信濃諏訪湖」や、安政5年(1858年)刊行の『富士三十六景』、安政6年(1859年)刊行の絵本『富士見百図』、嘉永から安政年間刊行の『善光寺みやげ 諏訪湖真景』などにおいて諏訪湖から見える富士を描いている。

出典:wikipedia

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