レッチェ()は、イタリア共和国プッリャ州南東部の都市で、その周辺地域を含む人口約9万人の基礎自治体(コムーネ)。レッチェ県の県都である。サレント半島の内陸にある主要都市で、古代ギリシャ時代以来2000年以上の歴史を持つ。バロック様式の建築が市内に多いことから「南イタリアのフィレンツェ」とも呼ばれる。標準イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。レッチェ県北部に位置する。レッチェの市街は、アドリア海から約20km内陸にあり、ブリンディジの南東約37km、ターラントの東約80km、州都バーリの南東約140kmに位置する。自治体としてのレッチェは都市の周辺地域を含み、アドリア海に面する。ギリシャの記録によるとクレタ出身とされているメッサピ人()が市の基礎をつくった。伝説によると、レッチェはシバル("Sybar")と呼ばれ、メッサピ人によってつくられ、トロヤ戦争時代から存在したという。のちにイアピゲ人()に占領され、紀元前3世紀には古代ローマに征服され、その名をルピアエ("Lupiae")と改名した。紀元2世紀のハドリアヌス帝時代、市は3km北東へ移動し、名をリケア(Licea)またはリティウム(Litium)とされた。レッチェには劇場、円形闘技場があり、ハドリアヌス港(現在のサン・カタルド)とつながっていた。地元でサントロンツォ(聖オロンツォ)と呼ばれるレッチェのオロンティウスは、市初代のキリスト教司教を務めたとされ、レッチェの守護聖人となっている。西ローマ帝国滅亡後、レッチェは東ゴート王トーティラにゴート戦争のさなか略奪を受けた。549年に東ローマ帝国に占領され、5世紀に渡って支配を受けた。その間、サラセン人、ロンゴバルド族、マジャール人、スラヴ人の事実上の征服を数回に分けて受けた。11世紀のノルマン征服後レッチェは貿易の要地となり、その後のホーエンシュタウフェン家支配、アンジュー家支配時代に繁栄した。レッチェ公国()は、1053年から1463年にかけてシチリア王国の最大かつ重要な封土の一つであった。その後、王国の直轄領として併合された。15世紀から、南イタリア有数の都市になり、1630年から貴重なバロック建築の建設が始まった。オスマン帝国による侵攻をかわしたことで、16世紀初頭に新たな城壁と城が神聖ローマ皇帝カール5世 によって築かれた。1656年、ペストがレッチェで大流行し、数百人の死者を出した。1943年、レッチェに配備されていた爆撃機が、エーゲ海で孤立してしまったイタリア軍基地支援にまわり、第二次世界大戦中ドイツ軍と戦った。柔らかく加工しやすいため彫刻に適したレッチェ石(石灰岩)が市の主要な特産品である。その他にはセラミックスが生産されている。また農業地帯でもあり、オリーブ油とワインが生産される。レッチェから遠くない町村を含むサレント半島の一帯はグレチア・サレンティーナ(Grecìa Salentina)と呼ばれ、グリコ語(ギリシャ語の方言)話者人口が約2万人いる。
出典:wikipedia
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