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中松義郎

中松 義郎(なかまつ よしろう、通称: ドクター中松、英語表記:Dr.NakaMats. 1928年(昭和3年)6月26日 - )は、日本の発明家、実業家である。「ドクター中松創研」代表取締役、日本文化振興会会長、国際発明協会及び世界天才会議の主宰者。東京都知事選挙に繰り返し出馬するなどのパフォーマンスで注目を集め、タレントとしてテレビに出演するようになった。アパグループ広報誌「アップルタウン」では「サー中松義郎博士」と表記されている。ドクター中松とよばれているが、彼が保有する学位は学士であり、博士(ドクター)では無い。東京府(現在の東京都渋谷区)出身。母親は東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業した教師であった。学校は、はじめ麹町小学校に越境通学した後、東京・原宿の自宅から至近の青山師範学校付属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)に4年生から編入した。その後は旧制:麻布中学校、海軍兵学校舞鶴分校、旧制:成城高等学校理科甲類。1953年(昭和28年)東京大学工学部を卒業した。卒業後は三井物産に就職した。ヘリコプターの営業に携わり、この際にヘリコプターによる農薬散布を発案したという。1959年(昭和34年)、イ・アイ・イに入社、専務、副社長を歴任した。1971年(昭和46年)、同社社長との対立から独立した中松はナコー(現在のドクター中松創研)を設立、自らの研究開発の拠点とした。これまでの発明件数は3,000件以上であり、トーマス・エジソンの1,093件を上回り世界一だとしている。しかし、エジソンの発明が1,093件というのはアメリカ国内で取得した特許の件数であるが、中松による日本国内での特許取得件数は1991年時点で193件であり、中松の「3000件以上」という数字には特許を取得していない「発明」が多数含まれている。また、特許取得件数のギネス世界記録では工学博士の山崎舜平が2004年に3,245件の特許を取得したとして世界一に認定(2011年には6,314件で再認定)されており、中松を大きく上回っている。1980年(昭和55年)から1993年(平成5年)にかけては「発明件数2,360件」と主張していたが、『宝島30』1993年(平成5年)11月号に掲載された記事『「ドクター中松」という珍発明』(松沢呉一)において発明件数が10年以上も全く変化していないことを指摘されて以降は、現在の「3,000件以上」という主張となった。家族は妻と2男1女。座右の銘は「撰難楽」(“せんなんらく”。愚か者は楽な道を、天才は困難な道を選ぶという意味)。趣味・特技はカメラ、ピアノ、ダンス。尊敬する人は101歳で死去した母であり、東京都知事選への出馬を促したのも母であったという。野球などのスポーツに造詣が深く、1990年(平成2年)には日本人として初めてメジャーリーグ球団ピッツバーグ・パイレーツの始球式を行っている。「君が代」をコンピューターで行進曲調にアレンジし、歌詞は原曲の通りに自身で吹き込んだシングルCDを発売したことがある。20歳の頃にセックスをすると頭が悪くなるとも主張しており、自身も24歳までセックスをしていなかったという。1991年東京都知事選挙に無所属で立候補、“21世紀の地球都市を発明する”の基本政策を掲げ、自作のジャンピングシューズ(ピョンピョンシューズ又はフライングシューズ)を履いたパフォーマンスを行った。結果はわずか2万7,145票で惨敗ではあったが、その一方でバラエティー番組に「奇抜な発明家」として登場する機会も増え、一躍有名人になった。翌1992年(平成4年)の参院選には比例区に政党「発明政治」を率いて出馬したが落選した。また、1995年東京都知事選挙に立候補を表明するも、告示前に断念し、上田哲候補の応援に回っている。2003年(平成15年)の都知事選では、会見で「ドクター中松ディフェンス(DND)」という発明品で、「ミサイル攻撃を防止できる装置の発明で、首都を、そして都民をこのミサイル攻撃から救う」「北朝鮮のミサイルをUターンさせられる」などと発表した。2005年(平成17年)のインタビューで「元来、政治家は国のために働くもの。『国のため』という気概をどの程度が持っているかが重要なポイントだ」と政治家には愛国心が必要であると訴えた。2007年(平成19年)、第21回参議院選挙に立候補した際に発表した「ドクター・中松ドクトリン」には、「私にしか出来ない最先端の発明が日本のためになる」「官僚はよく働く者のみなし数を1/2にする」「現行憲法は存在しない。現行憲法の名称は大日本帝国憲法の昭和二十一年改正であるべきである」等記載されていた。2013年(平成25年)に「真の近現代史観」懸賞論文で佳作を受賞した論文「日本は負けていない」でも同様の主張を行っている。2011年(平成23年)の都知事選に無所属で出馬した時には記者会見で、当選しない場合はあと10回以上選挙に挑戦しつづけると宣言した。また80代の年齢で都知事の激務に耐えられるかを尋ねられ、筋トレで身体を鍛えているため80歳時点で50トンの重り(キログラムの誤記ではない)を持ち上げることができ、体力に問題はないと答えた。2012年(平成24年)の都知事選では、届け出名をそれまでの「ドクター」から本名に変えたが、これは橋下徹が「『カタカナ名前はふざけている』と言ったらしい」というのが理由であるという。2013年(平成25年)、第23回参議院選挙を前に小林興起が設立した政治団体つばさ日本の最高顧問に就任し、公認候補として比例区から出馬すると発表。しかしその後つばさ日本が候補者の選定などに難航し、同選挙への候補者擁立見送りを発表すると、無所属で東京都選挙区から立候補すると発表した。届け出名については前回につづき本名の「中松義郎」で届け出るとしており、理由については「偽物の博士が多くなった。一緒にされては困る。」と語った。ドクター中松の公式サイトに拠れば、主な公約は以下の通りである。2009年(平成21年)7月、宗教法人「幸福の科学」を母体とする政党幸福実現党に招聘されて同党特別代表に就任し、2011年(平成23年)2月28日の退任まで務めた。中松は「幸福の科学」の会員ではないものの、第45回衆議院議員総選挙(2009年)には同党の比例代表東京ブロックに立候補して落選している。第22回参議院議員通常選挙(2010年)も同党から立候補するも落選。その後は同党と一線を画し、無所属で立候補している。中松はフロッピーディスクの発明者であり特許を取得したと主張している。ただし「フロッピーディスク」と呼ばれるコンピュータ用の外部記憶デバイスを「ディスケット」として世界で初めて発売したIBMは、中松を発明者、もしくは開発者であると発表したことはない。IBMの「ディスケット」はアラン・シュガートが率いるIBMの開発チームが1970年(昭和45年)に開発し、1971年(昭和46年)より商品化されており、特許を取得・保有しているのはIBMである。中松は1985年(昭和60年)に配付した資料で、1947年(昭和22年)の東大在学中に「シートに面積型に記録する媒体」とその再生を行うドライブの着想を抱き、1948年(昭和23年)に特許を出願し、1950年(昭和25年)に完成させ、1952年(昭和27年)に特許が認められ、その影響で1956年(昭和31年)に三井物産の株が上がったとしている。またフロッピーディスクのあらゆる部品が中松のパテントであるとしている。また中松は1979年(昭和54年)にパテント契約をIBMと締結したとして、フロッピーディスクは中松の発明によるものだとしている。中松の主張にある「1948年(昭和23年)に特許出願して、1952年(昭和27年)に登録されたフロッピー媒体」と時期的に一致する特許は「ナカビゾン」 もしくは「積紙式完全自動連奏蓄音器」の2つであり、ナカビゾンは何枚も繋がった紙の横一行一行に譜面が記録されていて、自動連奏蓄音機の譜面読み取り部分が左右に振れることで譜面を読み込み演奏するものである。IBMが日本でのディスケット販売に関連して中松の持つ特許の「非独占的特許使用契約」を結んだのは事実であり、中松によれば契約したのは1979年(昭和54年)2月であるという。対するIBMの広報担当者はニューヨークタイムズの取材に対して、IBMはいくつかの特許使用契約を中松から得たことがあるが、それはフロッピーディスクのものでは無く、フロッピーディスクはIBMが独自に開発したものであると述べている。中松自身は全世界に普及したフロッピーディスクの発明者であるとして、その発明によって世界を変えたと称している。また、2014年現在「ドクター中松 創研公認オンラインショップ」でも、「フロッピーディスクの発明者、ドクター・中松」として「サイン入りのフロッピーディスク」を販売している。このサイトで販売されているフロッピーディスクはナカビゾンや積紙式完全自動連奏蓄音器の機器ではない、5.25インチフロッピーディスクである。中松は食事を二食、一食と減らして自身の体調の変化を観察したところ、一食の時に調子がよかったことから、「リボディ」という健康法を思いついた。その中身とは、一日一食主義をはじめとして、体によい五十五品目の摂取、ビタミンBやビタミンC、D、亜鉛といった栄養素の重要性、調理器具の正しい選択、強い精神の鍛錬、心地よい睡眠などであり、実践すれば144歳まで生きられるとしている。しかし、自身の86歳の誕生日となった2014年(平成26年)6月26日、彼自身は治療不可能の前立腺がんに侵されており2015年(平成27年)末までの余命と医師から宣告されたことを公表した。彼は会見の場において、今後は残された時間を使って新しい「がん治療ロボット」の開発に取り組むことを宣言している。特許以外にも数多くの流行語の商標登録出願を行い、「元祖平成維新」や「新・民主党」、「知本主義」などは商標登録されている。しかし、「がんばれ日本(にっぽん)」はJOCから不使用取消審判が請求され、審決取消訴訟を経て、中松の商標登録取消が確定した。2011年(平成23年)12月、「日本維新の会」の名称を商標登録するため特許庁に出願、2012年(平成24年)8月に拒絶査定(却下)されている。中松は同年10月、不服を申し立てるため特許庁に審判請求書を提出し、審判が行われる見通し。特許庁の審判は1年程度かかるという。特許庁の審判結果になお不服の場合は知的財産高等裁判所を経て最高裁判所まで争うことができる。中松は1989年(平成元年)より著書や講演活動などで「維新」の言葉を使用していると主張、既に「東京都維新の会」、「平成維新の会」については中松により「セミナーの企画・運営又は開催」、「書籍の製作」などを指定商品として商標登録が行われている。2012年(平成24年)9月に大阪市長橋下徹らによって結成された政党日本維新の会は中松の届出に困惑しており、同会も商標登録を行う予定であるが、中松の出願について審判・訴訟で拒絶が確定しない限り、別の者が「日本維新の会」の商標出願をしても登録されることはないことから、同会が商標登録できるのは早くとも2013年(平成25年)末以降になる見通しである。1989年(平成元年)、ニューズウィーク誌に掲載された『Who Said Talk Was Cheap?』という短い記事において、講演料が高額な人物11人の中で元大統領ロナルド・レーガン、超音速機パイロット・チャック・イェーガー、アメフトチーム監督マイク・ディトカ()、タイタニック号の発見者ロバート・バラード()と並んで唯一の日本人、フロッピーディスクを発明した「日本のエジソン」として講演料1万ドルと紹介された。記事のソースは講演斡旋会社とされており、編集部が評価したものではなく、中松は12人の中で最も低額であった。中松はこれを引用して「ニューズウィーク誌で世界で最も価値ある12人に選ばれた」と称している。2006年(平成18年)、インターネット世論調査で、「この人のおかげで今がある」とされる発明家として、第1位となったエジソンに次ぐ2位となった。2010年(平成22年)、インド・デリーの寺院でチベット仏教ゲルク派のトップ(教主)である第102代ガンデン・ティパ(第3世セ・リンポチェ)から「金剛大阿闍梨」に認定されたという。一方、問い合わせを受けたガンデン・ティパは、中松に金剛大阿闍梨の地位を授けたことはなく、そもそもガンデン座主にそのような権限や風習がない、とその事実を否定した。アメリカ合衆国の11の州で名誉市民となっているほか、いくつかの場所では「ドクター中松デー」という記念日が制定されている。ただし、アメリカでは名誉市民賞や記念日は市に対して本人が寄付を行えば授与されるケースが多く、一般的な顕彰とは位置づけが違っている。また、世界発明コンテストに11年連続でグランプリ受賞したとしているが、そのコンテストの主催者である国際発明協会(社団法人「発明協会」とは無関係の組織)の会長は中松自身である。2005年(平成17年)、「35年間に渡り自分の食事を毎回撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析し続けたこと」に対して、ノーベル賞のパロディであるイグノーベル賞(栄養学賞)が贈られた。中松は42歳のときから食べた食事の記録、血圧や体重などの情報を集めるようになり、撮影した食事の写真は1万枚以上に上る。中松はこの受賞は、自ら提唱した健康理論であるリボディ理論が認められた為であるとしている。また受賞以来、政見放送や自サイトなどでこの受賞に触れる場合には、「IG(アイジー)ノーベル賞受賞」と表記、または発音している。さらに中松自サイトや商品の販売では「IGノーベル賞」は「ノーベル賞の上のノーベル賞」であるとして、受賞者はノーベル賞受賞者が選ぶなどと説明している。しかし、2016年(平成28年)の自著『私は死んでる暇がない』では「イグノーベル賞」「Ig(イグ)ノーベル賞」と表記している。2014年(平成26年)のイグノーベル賞授賞式では、日本人初となる基調講演に抜擢され、当日は車いす姿で「がん撲滅食を発明した」と発表し、喝采を浴びた。中松はその他、リンカーン記念平和財団総裁、世界宗教連合会総裁、世界宗教法王庁第二代法王、国際学士院大学総長、日本文化振興会第十代会長、世界婦人平和促進財団最高顧問などの肩書きを称している。2014年(平成26年)5月に、全米がん撲滅協会の会長に就任し、がん撲滅の発明をすることを明言していたが、6月に自らも末期がんであることを公表。2015年(平成27年)4月18日にがん撲滅ソング「ガンの顔つき悪くても」(2015年6月24日発売)で歌手デビューを果たす。中松の主張によれば、米国国会表彰、アメリカ大統領賞、米国発明会議最高賞、世界名誉賞、ミズーリ大学総長賞、米国ナショナル大学世界指導者賞、シカゴハイテク研究所天才賞、国際著名人名誉殿堂入り、韓国文化勲章、世界平和大賞、米国発明協会最高賞、ミレニアム賞、韓国蒋英実化学文化賞などの顕彰を受けている。1982年(昭和57年)に全人類に最も貢献した世界一の発明家賞、1983年(昭和58年)に発明大賞科学技術庁長官賞科学技術振興功績者表彰、1985年(昭和60年)社会貢献者特別功労者賞、1987年(昭和62年)に国際照明フェア最優秀賞天才賞、ビジティングスカラー大賞、1988年(昭和63年)にはアメリカ発明会議ライフタイム・アチーブメント賞などを受けたともしている。

出典:wikipedia

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