一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき)は第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。「一式陸攻(いっしきりくこう、-りっこう)」の短縮形でも呼ばれる事も有る。前作の九六式陸上攻撃機同様、三菱重工業株式会社(前身三菱内燃機株式会社)の設計・製造であったが、後継とされた陸上爆撃機「銀河」の戦力化が遅れた為、終戦まで主力攻撃機として使用された。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。1930年代大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦・航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。こうした目的に沿って試製されたのが、海軍広工廠の九五式陸上攻撃機、三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(1935年(昭和10年)10月1日三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所と改称)の本庄季郎技師を主務者として設計された九六式陸上攻撃機だった。細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体である九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、所謂「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の防備能力を向上させた後継機として1937年(昭和12年)9月に「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)、即ち皇紀2601年4月に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名された。第一回一式陸攻打ち合わせ会で本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案するも和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却されている。本機の特徴としては下記の点が挙げられる。 しかし、搭乗員を直接防護する防弾鋼板は重量軽減策から省略された。当時、搭載火器による弾幕と高速力で敵迎撃機から身を守ることが可能という「戦闘機無用論」が存在していたが、九六式陸攻が支那事変の渡洋爆撃においてかなりの損害を出したことから、十二試陸攻の要求性能には防弾装備も挙げられている。しかし当時最新の研究から、「近い将来、欧米の航空機銃は20mm級が主流になると考えられるが、これに対応した防弾装備と搭載力・航続力を併せ持たせることはエンジン出力から見て不可能なことから、防弾は最小限にして軽量化を図り、速力や高高度性能等の向上によって被弾確率を低下させた方が合理的」と考えられたため、要求時点から防弾の優先順位は低く、実機の開発においても他の性能を落とさないため、犠牲にされたという経緯がある。当然、海軍も十二試陸攻の要求性能で大丈夫と考えていた訳ではないようで、十二試陸攻が発注された翌年の昭和13年に陸攻護衛専用遠距離戦闘機の「十三試双発陸上戦闘機」(後の夜間戦闘機「月光」)、及び四発陸攻の「十三試大型陸上攻撃機」(後の「深山」)が同時に発注されていることからもそれが伺える。海軍の性能要求に対し、当初三菱は三発もしくは四発機とすることを海軍に逆提案したものの、拒否されている。これは三菱に要求されたのは双発陸攻で、四発陸攻は翌年に十三試陸攻として発注する予定があるためで、既に九六式陸攻と九七式飛行艇という実績を挙げている三菱と川西に双発の十二試陸攻と四発の十三試大艇(後の二式飛行艇)の開発を、四発機の経験に乏しいものの、長年に渡ってダグラス DC-2のライセンス生産を行っている中島にDC-4Eを原型とした十三試大攻の開発を発注して、双発陸攻と四発飛行艇を確実に実用化し、更に欧米からの技術導入により四発爆撃機を実用化を図ろうとするのは、既に渡洋爆撃等で大きな被害を受けていた海軍としては自然な判断である。一式陸攻は厳しい航続距離の要求性能をクリアするため、燃料タンクに主翼内構造を水密化したインテグラルタンクを採用したため、全面的な防弾装備(燃料タンクを防漏用のゴムで覆い、被弾により破孔が開いても漏れたガソリンによって溶けたゴムで破孔を塞ぐ装備)を施せなかった、とされているが、最初の量産機である一一型(G4M1)には、前後桁と燃料タンク側面に防弾ゴムが貼られていた。しかし、これだけでは不完全であったため、太平洋戦争が勃発すると甚大な被害が発生したことから、1943年(昭和18年)頃からは、速力と航続力の低下を覚悟の上で主翼下面外板に30mm厚のゴム板が貼られた他、並行して二酸化炭素噴出式の消火装置も装備されている。更に1943年(昭和18年)春から自動消火装置の装備が始まる。この装置は火災を電気的に感知し、自動的に二酸化炭素を噴出して消火するもので、効果の限定的な応急消火装置は急速にこの自動消火装置に置き換わっていき、自動防漏は困難だったが消火装備は充実していった。これらの防弾装備は一定の効果を見せた(現地部隊から被弾しても帰還した例が報告されている)ものの、悪化する戦況下では不十分であった。このため性能向上型の二二型(G4M2)ではインテグラルタンクに防弾ゴムを装備することが計画されたが、ゴムが熱によって燃料と反応し、溶解するなど、取り扱いは困難を極めたため、防弾ゴムの搭載は断念され、一一型と同じ防弾装備にならざるを得ず、「桜花」母機型である二四丁型(G4M2E)になり、一番燃料タンク・燃料コック・操縦席背面に防弾鋼板が追加された。更なる戦況の悪化に伴って開発された三四型(G4M3)では、桁を一本にした新型翼に変更、インテグラルタンクを廃止して自動防漏タンクを装備したが、構造変更による容量減に加え、当時の日本の重化学工業の水準で必要な防弾性能を得るためには相当に厚いゴムを張らねばならず、結果として航続距離が3割も低下するという結果を招いた。もっとも、完成が終戦間際であったことと、既に、より高速で設計当初から防弾装備を備えた陸上爆撃機「銀河(P1Y1)」の配備が進んでいたため、60機の生産に終わっている(防弾ゴムに必要とされる良質な天然ゴムの供給も絶たれつつあった。耐油性のない天然ゴムに貼り付けることでガソリンによってゴムが溶けることを防ぐ鐘淵紡績のカネビアン樹脂が注目されていたが、終戦までに量産体制が整わなかった)。海軍ではその創設期(1920年頃)から、対艦攻撃用に"雷撃と水平爆撃"が可能な機体を『攻撃機』と呼んでいた。その後、1930年代にアメリカ海軍で対艦攻撃用に急降下爆撃戦法が開発されると、これに触発された海軍でも「急降下爆撃容易」であることを特性とする新機種「爆撃機」を追加した。海軍は「航空機種及び性能標準」の中でこうした各機種に要求する性能を明記することで、各機種を定義づけている。一式陸攻はこうした中では「中型攻撃機」に分類される。機首から機尾までほぼ同じ太さのずんぐりした外見と機尾の対空砲座から、葉巻型(英語ではフライングシガー。因みに九六式陸攻は魚雷・トーピード型)と呼ばれ、国民に親しまれた。太平洋戦争開戦直後に九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に大活躍した。その後、海軍陸攻隊の主力として主に南太平洋方面の対連合軍作戦に従事したが、基本構造の問題に起因する防弾性能の低さから、被害が増大するようになった。被害は特に雷撃時に顕著(ミッドウェー海戦に見られるように米軍機でも同様の傾向が見られる)だったが、それなりの数の護衛戦闘機を揃え、この規模の爆撃機としては良好な高高度性能と、防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的低く抑えることも可能だった。しかし、戦力バランスが大きく崩れ、護衛戦闘機はおろか陸攻も十分な出撃数を揃えることが出来なくなった大戦中盤以降は、戦術を夜間爆撃、夜間雷撃に変更せざるを得なくなった。それでも、雷撃により、レンネル島沖海戦で重巡洋艦シカゴを撃沈、他重巡2隻、駆逐艦1隻に損傷を与え、他にもトラック島空襲の際に空母イントレピッドを大破、台湾沖航空戦でも重巡キャンベラを大破させるなどの戦果を挙げている。また、この時期にソロモン諸島ブインで連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦死した際の乗機としてもよく知られる(海軍甲事件を参照)。大戦終盤は特攻兵器「桜花」の母機としても使用された。桜花はその形状から機外に装備せざるを得ず、そのために起こる空力の悪化、桜花自身の重量、さらには本機の脆弱性とあいまって、桜花を切り離す以前に敵機に捕捉・撃墜されることのほうが多かったようである。また終戦時には白色塗装の上、緑十字を描いた「緑十字機」として、軍使の乗機に使用された。一式陸攻の渾名として「ワンショットライター」(一発着火ライター)または「フライング・ジッポー」(空飛ぶジッポー)が有名である。これは翼内の燃料タンク容積が大きく、加えて防弾タンクの採用が進まなかった関係で、被弾に弱く、一掃射で炎上したという意味で使われた。このニックネームについて、日本の著作では、1952年(昭和27年)初版の堀越二郎・奥宮正武『零戦 』ですでに言及されている。その他、1942年2月に空母レキシントンを中心とする米機動部隊がラバウルへの空襲を行った際に迎撃に出てきた一式陸攻17機中13機を撃墜したレキシントンのF4F隊のパイロットが使い始めたと言う説もある。一方、航空評論家佐貫亦男『ヒコーキの心』によれば、航空評論家ウィリアム・グリーンが自著中で“日本人のかげ口”として引用しているということに過ぎず、真偽の程は疑わしいとする意見もあり、由来については詳らかではない。一式陸攻の撃墜された瞬間は米戦闘機側のガンカメラによっていくつか記録されているが、その映像内でも炎上する機体は少ない。最近では上記の「ワンショットライター」が示すような、脆弱なイメージ一辺倒で語られがちだった一式陸攻の防御力を見直すような事実も発掘されている。1943年11月20日、タラワの戦い(第一次ギルバート諸島沖航空戦)に参加した米駆逐艦「キッド」は空母「インディペンデンス」に向かう一式陸攻7機編隊を発見。2700mで5インチ砲と40mm機関砲を用いて攻撃し、30秒後に2機を撃墜。同時にF6Fヘルキャット4機が一式陸攻編隊を迎撃したがなかなか撃墜できず、「インディペンデンス」は被雷して大破した。残る一式陸攻4機は撃墜されたが、最後の一式陸攻はF6Fの攻撃でも墜落せず、とうとうF6Fは諦めて一式陸攻の逃走を許した。アラン・ロビー艦長は戦闘報告書の中で一式陸攻の頑丈さを評価するほどである。空戦全体を見れば5機中4機が撃墜されているのは事実である。しかしながら一式陸攻よりも防弾装備が充実している次世代、他国の機体もまた出撃のたびに高い損耗に悩むのが常であった。戦闘の度に大損害を出しているという現実について、その責任のどこまでが機体に属するのか再検討を加えている文献も出版されている。太平洋戦争でのアメリカ軍は、日本軍の航空機に対してコードネームを付けて、種類を区別していた。戦闘機などは男性名、爆撃機や輸送機などは女性名を付けているが、実在の人物との関連はないと公式に言われていた。一式陸攻には「Betty(ベティー)」と言う名が付与されているが、これは命名に携わっていた情報部のとある軍曹のガールフレンドの名前であるという。彼女はペンシルベニア州で看護師をしていた。機体の左右にある大きな膨らみが、軍曹に彼女の身体的特徴を思い起こさせて、名付けられた。河口湖自動車博物館・飛行館が一式陸上攻撃機 二二型を復元し保存している。三菱製 12017号機。米国カリフォルニア州の には 一一型の機体が復元されないままの状態で展示されている。また同国メリーランド州のには三四型の機首が保管されている。緑十字機として運用され遠州灘で不時着した一式大型陸上輸送機の尾翼と燃料タンクの一部を磐田市が保管している。
出典:wikipedia
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