ホワイトフォンテンは日本の競走馬。芦毛の逃げ馬で、父親の名前(ノーアリバイ)と毛色から「白い逃亡者」の異名をとり、マニアには同期のハイセイコーに勝るとも劣らぬ人気を誇った。高橋司騎手とのコンビでも人気を博した。ホワイトフォンテンは1972年秋にデビュー、2戦目の新馬戦を後の桜花賞馬・ニットウチドリを相手に勝ち上がった。その後4つの勝ち鞍をあげるが、流石にクラシックは荷が重かったのか唯一出走した1973年の日本ダービーは先行策に打って出るも24着惨敗に終わっている。1974年秋に久し振りの勝利を収めると、仲冬ステークス・日本最長距離ステークスを逃げ切って勝利した。但し、日本最長距離ステークスの勝利タイムがあまりにも遅すぎたため、レースに対する疑問の声が噴出してしまい、結果的にレースが廃止される一因を作ってしまった。その後、再び敗北が続いたが、1975年、ブービー人気の日本経済賞を逃げ切り重賞を初制覇。フジノパーシア・スルガスンプジョウ・イチフジイサミと言った強敵を相手にしての勝利(単勝万馬券)であった。続いて毎日王冠を7番人気で逃げ切ったが、暮れの有馬記念は最下位(13着)に敗れた。翌1976年にはアメリカジョッキークラブカップをまたもやブービー人気で逃げ切り勝利。更に日本経済賞を4番人気で逃げ切って同レースを連覇し、重賞は4勝目を数えた。しかし、天皇賞(秋)では、ロングホークに先手を取られ見せ場すら作れず3コーナーより前から大きく失速。勝ち馬・アイフルから大きく離された最下位に惨敗した。翌1977年1月23日、引退レースの予定だったアメリカジョッキークラブカップでは、本馬場入場の前に故障を発生(左前肢骨折)したため発走除外となりそのまま引退した。競走馬を引退したホワイトフォンテンは、骨折のために1年遅れたものの種牡馬生活を開始した。実績の割には種付け人気は低くなく、種牡馬引退前年(1988年)まで毎年20 - 40頭に種付けを行っていた。代表産駒は、皐月賞5着のアサカフォンテン、1989年の朝日チャレンジカップで3着に入ったイチヨシマサルなど。母の父としては東京3歳優駿牝馬、OROカップ、エメラルドカップ優勝馬トミケンブライトを出している。1989年に種牡馬引退後の1996年、新冠町の隆栄牧場で老衰により27歳で死亡した。4代母Emaliの曾孫に名種牡馬のブラッシンググルームがいる。
出典:wikipedia
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