医学史(いがくし)とは、医学に関する歴史である。このページでは、西洋を中心に医学の歴史を説明する。薬の歴史は薬学史、薬草を参考のこと。薬効目的の植物(薬草)が最初に用いられた時期を特定する記録はない。だが、おそらく人類が文字を用いる以前から薬草は用いられていたのだろうとも考えられている。。長い年月にわたる試行錯誤の末、世代を通じた知識が部族社会の文明として集積され、シャーマンが治癒の専門職として機能した。3千年の歴史の中で、古代エジプトは巨大で多岐にわたる豊かな医学の伝統を作り出した。ヘロドトスはエジプト人を指して「すべての人間の中で、リビア人の次に最も健康だ」と書いている。これは乾燥した気候と、すぐれた公衆衛生のシステムのためである。ヘロドトスによれば、「医学の技術は、一人の医者は一つの病気だけを治療する、というほどに専門化されている」という。ホメーロスは『オデュッセイア』の中でエジプトを「実り豊かな地球が、薬を最も多く貯蔵する」土地で、エジプトでは「全ての人が医者」だと述べた。かなりの部分が超自然現象を扱っていたとはいえ、エジプト医学は最終的に、解剖学・公衆衛生・臨床診断の領域で実用的な手法を開発した。エドウィン・スミス・パピルスに収録された医学の知識は紀元前3000年ごろのものとも言われている。知りうる限りエジプト最古の外科手術は、紀元前2750年に行われた。エジプト第3王朝のイムホテプは、古代エジプト医学の設立者、および療法・慢性病・解剖学についての所見を記したエドウィン・スミス・パピルスの原典の編纂者ともいわれている。エドウィン・スミス・パピルスは紀元前1600年ごろに書かれた、いくつかの先行する研究の複写だと考えられている。古代の外科教本で、魔術的な思考をほとんど全て排除しており、数々の慢性病の検診・診断・処置・予後について詳述している。対照的に、エーベルス・パピルス(紀元前1550年頃)には、病気の原因となる、悪霊その他の迷信上の存在を退けるための、まじないや非衛生な対処法が多く記されている。エベルス・パピルスには、文書として現存する最古の腫瘍の認識記録があるが、古代医学上の誤解もあり、たとえば546節や547節では単なる腫れものと解釈しているようだ。カフン・パピルス()は、妊娠に伴う問題を含む婦人病を扱っている。断片的なものを含め、診断と処置について詳述する34の症例が現存している。紀元前1800年ごろのもので、現存する最古の医学文献である。古代エジプトでは、第1王朝の時期には「生命の家」(ペル・アンク)と呼ばれる医療施設が作られていたことで知られる。第19王朝までに、労働者の中には医療保険・年金・疾病休暇などの福祉を受けられるものもいた。記録上最古の医者も、古代エジプトのものだといわれている。紀元前27世紀、第3王朝ジェセル王の「歯科医と医者の長」と呼ばれたヘシレである。また、記録上最古の女医は、第4王朝時代のペセシェトである。ペセシェトの称号は「女医の女性監督者」である。監督者としての立場に加え、ペセシェトはサイス( 古代エジプトの都市)の医学校の助産科を卒業している。バビロニアの医学の記述は、紀元前2千年紀前半の古バビロニア王国までさかのぼる。しかし最も広範なバビロニアの医学文献は、アダド・アプラ・イディナ王の治世(紀元前1069年-1046年)の、ボルシッパ( シュメールの都市)のエサギル・キン・アプリ(Esagil-kin-apli)という医師による『診断手引書』である。同時代のエジプト医学と同じく、バビロニア人は診断・予後・診察・処方の概念を取り入れた。これらに加え、『診断手引書』では治療計画、原因療法、経験論の活用、論理学、診断・予後・治療における合理主義などが取り入れられている。また医学上の症候のリストも含まれており、患者の体に表れる症候と診察・予後とを照合する際に使用する理論的なルールとともに、詳しい経験上の観察が多く記されている。『診断手引書』は、原則と推測の理論的な組み合わせが基本になっており、患者の兆候に対して検査と視診を行うことで、患者の疾患と、その病因および見通し、そして回復の機会を特定することが可能である、という現代的な視点も含まれている。患者の兆候や疾患に対しては、包帯・軟膏・錠剤などの治療法が用いられた。紀元前1千年紀のヘブライ医学についての知見は、主にモーセ五書からのものである。モーセ五書には感染者の隔離(レビ記13章45-46節)、死体を扱った後の洗浄(民数記19章11-19節)、糞便を野営地外に埋めること(申命記23章12-13節)など、様々な健康に関する法律や儀式が含まれている。これらの法の遵守により衛生上の恩恵がもたらされ、ユダヤ人の信仰上、秘められた動機からではなく神の意志を全うするために、これらの儀式や法を守ることが求められた。マックス・ノイベルガーは、彼の著書「History of medicine」でこう述べている。古代ギリシャの医学は、バビロニアとエジプトの医学の伝統に大きな影響を受けている。病因について様々な考え方があったが、他の地域と同じく、体液の均衡を重んじる医学(体液病理説)が重視された。体にある数種類の体液のバランスがとれていれば健康で、崩れれば病気になると考えたため、治療の目的は体液のバランスを整えることであった。古代ギリシャ医学において有名なのはコス島のヒポクラテスで、呪術性を排した経験医学の嚆矢であるとされ、「医学の父」と呼ばれている。ギリシャ医学は、後に「」としてヒポクラテスの名で纏められた。これには70編あまりの論文が収録されているが、ヒポクラテスが属したコス派だけでなく、ライバルのクニドス派の論文も収められている。ヒポクラテスの最も有名な文書は、医療倫理・任務などについての宣誓文「ヒポクラテスの誓い」である。後世の作と言われるが、これは現代においても意義があり、また有用である。ヒポクラテスとその弟子は、多くの病気や医学上の状態の記述を残した。肺癌などの慢性肺疾患や、チアノーゼ性心疾患の兆候であるばち指を最初に記述したとされている。このため、ばち指はヒポクラテス指(Hippocratic fingers)と呼ばれることもある。ヒポクラテスは「予後」の中で、ヒポクラテス顔(Hippocratic face 死相のこと)について記しており、シェイクスピアが『ヘンリー五世』の第2幕第3場で、フォルスタッフの死についてこの表現を使ったことで有名である 。ヒポクラテスは、急性・慢性・風土病・伝染病の疾病分類を作り、また悪化・再発・危篤・発作・峠・回復期などの用語法を作ったこの他には主に、兆候学・生理学上の発見、外科手術、膿胸(胸腔内に膿がたまる症状)の予後などの貢献がある。ヒポクラテスの教えは今日の呼吸器科の研究者に対しても有効である。ヒポクラテスは記録上最初の胸部外科医で、その発見は現在でも有効である。古代ローマでは、ギリシャの医師が活躍し、ローマ帝国各地の医学・薬学が集大成された。ローマ帝国で活躍したギリシャ人のガレノスは、最も偉大な古代の医師のひとりであり、様々な学派を折衷してギリシャ医学をまとめた。ガレノスは、「血液・粘液、黄胆汁・黒胆汁」を基本体液とし、その調和ぞ重視する四体液説を採用した。豚や猿などの動物を解剖して人体の構造を推測したが、心臓の構造など誤りも少なくなかった。またガレノスは、脳や目の外科手術など、技巧に頼った危険な手術を多く行った。こういった手術は2000年近くにわたって二度と行われなかった。薬学については、ガレノスに先立ちディオスコリデスが、簡潔で利用しやすい本草書『薬物誌』をまとめた。アリストテレスの四元素説の影響を受け、薬物を「熱・冷・湿・乾」の4つの性質に分類して解説した。ガレノスは『薬物誌』を称賛し、製薬についても多くを述べている。初の女性専用の器具をはじめとして、多くの手術用具が発明された。これには鉗子、メス、焼きごて、剪刀、手術針、ゾンデ、膣鏡などがある。また、初の白内障手術もローマ人によるものであるといわれる。476年に西ローマ帝国が崩壊し、西ヨーロッパからギリシャ・ローマ医学の著作は失われた。東ローマ帝国に残され、(c. 320 – 403)などによって医学書が編纂された。彼はガレノス医学を高く評価し、ユリアヌス帝の命で、クロトンのアルクマイオン(紀元前5 - 6世紀頃)から同時代の医学までをまとめた『医学集成』(希:Iatrikai Synagogai、羅: Collectiones medicae)全70巻を編纂し、『エウスタティオスのための梗要』(希:Synopsis pros Eustathion、羅:Synopsis ad Eustathium filium)に概要をまとめた(初学者向けであるため外科は除く)。体液病理説であるため、診断には・脈診が重視されており、(7世紀)は中国医学の影響を受けて脈拍を研究し、尿診の基礎を確立した。東ローマ帝国後期の14世紀初頭には、コンスタンティノポリスのは、尿と尿診など、広範囲のテーマに関する医学書を執筆した。これらの著作は、サーサーン朝ペルシャのジュンディーシャープールに、後にイスラーム世界に引き継がれた。ガレノス医学とディオスコリデスの本草書は、1500年以上西洋で最も権威あるテキストとして君臨した。ガレノス医学は、東ローマ帝国でまとめられ、アラビアに伝わって翻訳され、イブン・スィーナーなどによってギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)として整理され発展した。ガレノスや彼らの著作は中世・近世にヨーロッパもたらされてラテン語に翻訳され、18世紀までヨーロッパの医学教育において教科書として使われていた。ペルシアの医学研究および実践は長く豊かな歴史を持っている。ペルシアは東洋・西洋の交易路に位置するため、しばしばギリシャとインド両方の医学の発展を享受した。東ローマ帝国と敵対していたサーサーン朝ペルシャは、キリスト教徒による異端・異教徒の迫害を逃れたアレクサンドリアやアテナイの学者たちを積極的に受け入れ、ジュンディーシャープールに学者や生徒たちが集い、各国の医学書が翻訳され盛んに研究が行われた。教育を行う病院が考案されたのは、ジュンディーシャープール大学であるとも言われている。ムスリムやキリスト教異端など、様々な宗教・人種の医師、錬金術師、薬剤師たちによる、解剖学・眼科学・薬理学・薬学・生理学・外科学・製剤科学などの医学領域への多大な貢献により、イスラム文化は医科学に卓越し、古代ギリシアと古代ローマの医学技術をさらに発展させた。ガレノスとヒポクラテスが過去の典拠となっていた。830年ごろから870年ごろまでのガレノスの著作129点は、フナイン・イブン・イスハークとその助手たちによってアラビア語に翻訳された。その中でも特にガレノスの主張する理性的・体系的な医学のアプローチが、イスラム医学のひな型として、イスラム帝国の中に素早く広まった。医師によって初めて専門病院が設立された。専門病院はその後十字軍遠征の間にヨーロッパに広まったが、これも中東の病院から着想を得たものである。キンディー (801 - 873?)は『De Gradibus』を著し、数学を医学(特に薬学)へ適用して論じた。キンディーは『De Gradibus』の中で、薬の強さの度合いを測る数学的な軽量法や、医者が患者の病気の最も危険な時期を特定する仕組みを開発した。アル・ラーズィー(865-925)は自身の経験した臨床事例を記録し、様々な病気についての有用な記録を残している。『包含の書』(al-Hawi, アル=ハーウィー)は、アル・ラーズィー(ラテン名でラゼス(Rhazes)とも呼ばれる)の最大の著作集である。この中で、ラーズィーは自らの経験による臨床事例を記録し、様々な病気の有用な記録を残している。ラーズィーの『天然痘と麻疹の書』(al-Judari wa al-Hasbah)では麻疹と天然痘について記述し、ヨーロッパに大きな影響を与えた。『ガレノスに対する疑念』(Al-Shukuk ʿala Jalinus、英:Doubts About Galen)では経験的な方法から四体液説の誤りを証明するなど、ガレノス医学に批判を加えた。また錬金術に対する知識も深く、医師活動の中で意図的にアルコールを用いた初めての医師となった。アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー(アブルカシム)は近代外科学の父と考えられており、30巻の医学事典「Kitab al-Tasrif」を著した。これは17世紀までイスラム圏とヨーロッパの医学部で教材に使われた。アブルカシムは女性にのみ用いるものも含め、数多くの手術用具を用いた。これには腸線・鉗子・結紮糸・手術針・メス・キューレット・開創器・手術用スプーン・ゾンデ・手術用フック・手術用ロッド・膣鏡・骨用鋸・漆喰などがある。イブン・スィーナー(980 - 1037、ラテン名アヴィケンナ)は、医学の父といわれ、歴史上最高の思想家・医学者のひとりである。著書『医学典範』(1020)および『癒しの書』(11世紀)は、17世紀までイスラム圏とヨーロッパの標準テキストであり続けた。イブン・スィーナーの業績には、体系的な生理学研究の中に実験と量化を導入したこと、感染症の感染性質の発見、感染症の拡散を抑制するための検疫の導入、実験医学および治験の導入の他にも、細菌・ウイルスについて、縦隔炎と胸膜炎の区別、結核の感染性質、水や土からの病気の蔓延、肌荒れについての詳細な記述、性行為感染症、倒錯、神経系の失調などの記述を初めて行い、また発熱に対して氷を用いたり、薬理学と医学を区別したり(製薬科学の発展において重要)もした。1021年、イブン・アル=ハイサム(アルハセン)(965 - 1040)によって眼科手術の重要な進歩があった。アル=ハイサムは視界と視覚のプロセスを研究し、著書『Kitab al-Manazir』(光学の書)の中で初めて正しく説明した。イブン・アル=ナフィスは、初めて肺循環と冠動脈について記して循環系の基礎を作ったため、循環理論の父と呼ばれる。アル=ナフィスはまた、代謝の概念を最初に述べた。また生理学および心理学の新しい体系を作り上げて、イブン・スィーナーやガレノスの体系に取って代わった。この中でアル=ナフィスは彼らの四体液説、脈動、骨、筋肉、腸、感覚器、胆汁、管、食道、胃などについての誤った考えを批判した。イブン・アル=ルブディは四体液説を否定し、人体およびその保全は血液のみによることを発見した。また女性が精液を生産できるというガレノスの節を否定し、動脈の動きは心臓によるものではないこと、胎児の体で最初に作られる臓器は心臓だということ(ヒポクラテスは脳だと考えていた)、頭蓋骨を作る骨は腫瘍になりうるということを発見した。モーシェ・ベン=マイモーン(マイモニデス)はユダヤ人であったが、13世紀のイスラム医学に様々な貢献を果たした。マンスール・イブン・イリヤスの『人体解剖書』(Tashrih al-badan 1390年ごろ)には、人体構造上の神経系・循環器系の全図が掲載されている。14世紀のアンダルスにおけるペスト・腺ペスト流行期に、イブン・カティマとイブン・アル=カティブは、伝染病は人間の体に入り込む微生物が原因であることを発見した。その他にもムスリムの医師によってなしとげられた医学上の発展には、免疫系の発見、微生物学の導入、動物実験の活用、他の科学分野とのコンビネーション(農学・植物学・化学・薬理学など)、注射器の発明(9世紀イラク アマー・イブン・アリ・アル=マウシリによる)、最初の薬局の誕生(バグダード 754年)、医学と薬学の区別(12世紀以前)、2000種類以上の医学・化学物質の発見などがある。ヨーロッパでは、キリスト教徒による異端・異教徒に対する激しい迫害で、ギリシャ・ローマの学問の成果の多くが失われた。ローマ帝国権力の崩壊とキリスト教会の影響で、組織的な医療の発展が停滞した。ヨーロッパ中世の医学は、科学と宗教の混合発展であった。中世初期、ローマ帝国の没落後の医学知識の主流は、主に修道院などに保管されて現存していたローマの文献だった。しかし、病気の原因・治療に関する考え方は世俗的な解釈のみによるものではなく、精神的世界観も基本に含まれており、運命・原罪・星の影響といった要素が、生理学的な原因(四体液説)と同様に重要視されていた。医学知識は、多くの修道院施設で保存・実施され、これらの施設にはしばしば病院が併設されていた。また、医学知識を代々伝承し、地域的な民間療法が行われた。医学は旧来の自由七科には含まれていなかった。すなわち、学問というよりも手仕事だと考えられていたのである。とはいえ、最初期(12世紀)のヨーロッパの大学でも医学科が設立され、当時のヨーロッパよりはるかに進んだイスラム医学が教えられた。イスラム圏と接する地中海地域では、11世紀イタリアでが設立され、組織的なプロフェッショナル医学が再興をみせた。サレルノ医科大学では、モンテ・カッシーノ修道院の協力を得て、東ローマ帝国やアラブの研究成果が翻訳された。12世紀には、イタリアその他で大学が設立され、その中ですぐに医学部が作られていった。古代の大家のもつ信頼性は、個々の観察や実験によって徐々に補足されていった。外科については、中世ヨーロッパでは、ガレノスの外科手術に関する著作が大学課程における主要テキストであった。ガレノスの人体観が絶対視されていたが、外科の技術は中世の間に大きく進歩した。はサレルノ医科大学に外科部門を創設し、『外科医術』(Chirurgia Magistri Rogerii)を著し、現代に至るまでの西洋の外科処置法の基礎を築いた。ルネッサンスの到来とともに、解剖および死体の検査を中心とする実験的な調査が多くなった。ベルギー人の解剖学者・医師であるアンドレアス・ヴェサリウスやウイリアム・ハーベーなどの個人の研究により、一般に認められた民間伝承が科学的に検証されるようになった。彼の主著『人体の構造についての七つの書』()は、ガレノスの著作や方式に大きく影響されているが、心臓、静脈体系、肝臓、子宮、上顎骨などに関するガレノスの誤りを証明した。また、近代神経学の発展は、16世紀、脳の解剖学その他について述べたヴェサリウスに始まるとされる。ただし、ヴェサリウスは脳その他の解剖学について記したが、脳機能については脳側室に中心があると考えながらも、よく分かっていなかった。医学の理解と診断は進歩したが、治療はあまり改良されず、健康への直接の利益は少なかった。有効な薬は、アヘンとキニーネ以外にほとんど存在せず、民間療法と潜在的な毒性がある金属化合物とがポピュラーな治療法であった。化学や研究技術・施設の発展により、医学は19世紀以降に大変革を起こした。伝染病についての旧来の考えは、微生物学とウイルス学に取って代わられた。細菌と微生物が最初に観察されたのは、1676年、アントニ・ファン・レーウェンフックによる、顕微鏡を使った観察であった。これにより微生物学という科学領域が始まった。イグナーツ・ゼンメルワイス(1818年-1865年)は、1847年、分娩に立ち会う前の医師に手の洗浄を義務づけるだけで、産褥熱による死亡率を劇的に下げた。ゼンメルワイスの発見は、微生物病因説に先立つものだった。しかし、ゼンメルワイスの発見を同時代の医師らは受け入れず、彼を迫害してしまった。ゼンメルワイスの発見が一般的に活用されるようになったのはイギリスの外科医ジョゼフ・リスターの発見以後であった。リスターは1865年、傷の手当てに対して殺菌剤の原則を示したのである。しかし19世紀の間、医学的な保守主義のために、ゼンメルワイスとリスターの研究は一般に受け入れられはしなかった。ルイ・パスツールの発見はゼンメルワイスの研究を支持した。微生物と病気とを結びつけて考えたパスツールは、医学に大変革をもたらした。パスツールはクロード・ベルナールとともにパスチャライゼーション(低温殺菌法)を考案した。これは現在でも使われている。パスツールの実験によって病原菌説が立証された。またベルナールは医学における科学的方法を作り上げるために、1865年、『実験医学研究序説』を発表した。パスツールは、ロベルト・コッホ(1905年にノーベル生理学・医学賞受賞)とともに微生物学を作り上げた。コッホはまた結核菌(1882)・コレラ菌(1883)の発見およびコッホの原則を作り上げたことでも有名である。医学上の治療における女性の参加(助産婦・家政婦は除いて)はフローレンス・ナイチンゲールなどによってもたらされた。ナイチンゲールらは、それ以前男性が支配的だった医療分野に、看護の基本的な役割を示した。すなわち、衛生・栄養状態の不備による患者の死亡率を下げたのである。ナイチンゲールは1852年、クリミア戦争後の聖トマス病院に勤務した。エリザベス・ブラックウェル (Elizabeth Blackwell) (1821年-1910年)は、アメリカで正式教育を受けて医学を実践した最初の女性となった。第一次世界大戦などの大規模な戦争状況により、体内機能の監視のためX線(ヴィルヘルム・レントゲン)や心電図(ウィレム・アイントホーフェン)を使用することが増えた。大戦間にはこれらに続いてサルファ薬などの選択的殺菌薬が初めて開発された。第二次世界大戦では、広い範囲で効果的な殺菌療法がみられた。これはペニシリンの開発および大量生産によるもので、戦争上の圧力およびイギリスの科学者とアメリカの製薬産業の協力によって可能になった。産業革命の時代には、癲狂院が目立つようになった。エミール・クレペリン(1856年-1926年)は精神疾患に関する新しい医学分野を導入した。この医学分野は、病理学や病因論ではなく行動がその基礎となっていたにもかかわらず、最終的に精神医学と呼ばれるようになった。1920年代のシュルレアリストは、出版物の中で精神医学への反対を表明した。1930年代には、導入されたいくつかの医学的療法が物議をかもした。この中には発作を誘発するもの(電気けいれん療法、インスリン等の薬物療法)や、脳の一部切除(ロボトミー・ロベクトミー)などが含まれる。どちらも精神医学上広く用いられたが、基本的な倫理、有害な効果、誤用などに対する懸念や反対の声もあった。1950年代にはクロルプロマジンなどの新しい精神医学上の薬が研究所で製作され、こちらの使用が徐々に好まれるようになった。これは通常進歩と考えられているが、遅発性ジスキネジアなどの深刻な副作用を理由に反対する声もある。患者が精神医学上の監督に従わない場合、治療法に抵抗を示して薬を飲まないことはしばしばあった。また精神病院に対する抵抗も強くなり、精神医学上の監督外で、ユーザー主導の協力グループ(治療コミュニティ)によって社会に復帰させる試みも現れた。ロボトミーは、1960年代以降の反精神医学運動の中で批判されていたにもかかわらず、統合失調症の療法として1970年代まで使用された。パキスタンのメヘルガルで、インダス文明ハラッパー時代(紀元前3300年頃)の人々が医学・歯学の知識を持っていたことが考古学者によって発見された。調査を行ったミズーリ大学コロンビア校の物理人類学者、アンドレア・クシナ教授は、ハラッパーの男性の歯を洗浄している際にこれを発見した。また同地域の後の調査によって、9千年前に歯の穿孔が行われていた証拠が見つかった。アーユルヴェーダ(आयुर्वेद:生命の知識)は、南アジアで2000年以上前に作られた、成文上の医学体系である。チャラカ(Charaka)とスシュルタ(Suśruta)の2学派のテキストが有名。これらのテキストには、ヴェーダと呼ばれる宗教文学中の古代医学思想とのある程度の関連が見られるため、初期アーユルヴェーダと初期仏教・ジャイナ教文学との直接的な歴史的関係が歴史家によって指摘されていた。アーユルヴェーダの最初の出発点は、紀元前2千年紀初期の特別な薬草の慣行を総合したものが基礎になっていると思われる。多大な理論的な概念化とともに、新たな疾病分類や療法が紀元前400年ごろ以降加えられ、仏教その他の思想家のコミュニティから発表されたものであろう。チャラカが改編した『チャラカ・サンヒター』には、健康や病気は前もって決まっておらず、寿命は人の努力によって延ばせるとある。スシュルタに帰せられる『スシュルタ・サンヒター』では、医学の目的を、病気の症状を治し、健康を守り、寿命を延ばすことであると定義している。どちらの著作にも、数多くの病気に対しての検査・診察・処置・予後について書かれている。古代インド医学は内科を重視するが、『スシュルタ・サンヒター』は、鼻形成術・切れた耳たぶの形成・会陰部切石術・白内障手術などの様々な種類の外科処置法について書いていることが特徴的である。アーユルヴェーダの古典では、医学は8部門に分けられている。すなわち、の8科である。アーユルヴェーダには、インド錬金術の影響も大きい。アーユルヴェーダの研究生は、上記8部門とは別に、調剤と施術に必要な10科の技術を学ぶことになっていた。すなわち、蒸留法・手術法・料理・園芸・冶金・砂糖の製作・薬学・鉱物の分析と分類・金属の混合・アルカリの調剤である。広範な内容が、直接的な臨床科目の説明の中で教授された。例えば、解剖学は外科の授業の一環として、発生学は小児学と産科学の授業の一環として、生理学と病理学の知識はすべての臨床科目に織り込まれた。イニシエーションの終わりには、グルが厳粛な演説を行い、研究生を純潔・誠実・菜食主義の生活へと送り出す。研究生は全身全霊で健康のため病と闘わなければならない。また自己の利益のために患者を裏切ってはならない。服装は質素にして強い酒は避けなければならない。冷静さと自己コントロールを保たねばならず、つねに発言は慎重でなければならない。つねに知識と腕を磨かなければならない。患者の家では礼儀正しく謙虚に、患者の利益のみに目を向けなければならない。患者とその家族の情報を漏らしてはならない。患者の治癒が不可能で、患者その他を傷つけるおそれがある場合、これを秘しておかなければならない。通常の研究生の教育期間は7年である。研究生は卒業の前にテストに合格しなければならない。しかし医師(ヴァイディヤ)となっても、文献、直接の観察(プラティヤクシャ)、洞察(アヌマーナ)を通して学び続けなければならない。これに加え、医師の会合で知識を交換する。また、山の民や牧夫、森の民から特別な治療法を集めなければならない。中世にイスラム勢力が台頭すると、アーユルヴェーダは衰退し、ユナニ医学が隆盛した。
出典:wikipedia
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