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李淵

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立てたうえで、その禅譲により唐を建国した。李淵の出自である隴西李氏は、史書では西涼の武昭王の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする漢民族とされている。しかし、一方で「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」という説もある。李淵は北周の唐国公・安州総管を務めた仁公李昞の子として生まれた。その出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門だった。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后が李淵の叔母にあたることによる。李淵は先ず隋の千牛供身となり、譙 隴二州刺史・岐州刺史・滎陽 楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。文帝の後に煬帝が立って高句麗遠征を開始すると、李淵は懐遠鎮で兵站を監督した。やがて楊玄感の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。615年に山西 河東慰撫大使に任じられると、龍門の母端兒の乱を掃討、また絳州の柴保昌を討伐した。突厥が隋の辺境を侵すと、馬邑太守の王仁恭とともに突厥軍を撃退した。617年には太原留守に任じられた。次子の李世民や晋陽令の劉文静らの使嗾により、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。長安の留守をしていた代王楊侑を擁立して隋の恭帝とした。618年5月、煬帝が殺されたことを知ると、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。この頃洛陽でも隋の武将だった王世充が即位して鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力を築き、長江以南では南朝の梁の末裔である蕭銑が梁朝再興、群雄割拠の様相を呈していた。その後李世民らの活躍もあり、626年の退位までに梁師都以外の群雄を平らげるまでになった。 その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。これが実施されるにあたり、高祖李淵は李世民に天策上将の称号を与えることで李世民派の不満をなだめようとした。しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。高祖は唐朝の創業当初、仏教に対してはその存在を容認する立場を取り、また法会も行なっている。また、唐の正統性を擁護するような慧化尼と衛元嵩の予言詩を隋からの受禅に利用したことも『大唐創業起居注』の中に見える。武徳3年(620年)には、1月・5月・9月の三長斎月に刑死を執行せず、また殺生の禁断を命ずるほど、仏教の不殺生戒の周知に努めていた。しかし翌武徳4年(621年)になると隋代に建立された諸寺院を廃止し、洛陽城内には名徳ある僧30名、尼30名のみをとどめ、その他は還俗させている。さらに武徳9年(626年)には太史令傅奕の十一箇条の上奏文の内容に基づいて、高祖は仏教と道教をともに廃毀する詔を発した。それは40余年前に北周の武帝が衛元嵩の上表文をもとに仏道二教を廃したのを彷彿とさせる措置だった。その詔によれば、徳行ある僧尼や道士女冠は大寺や大観に住せしめて、その他の者は還俗させ、長安には寺3か所、道観2か所を残し、天下の諸州にも各1か所を残して、その他はことごとくく廃毀させることを求めた。しかし同年6月4日の玄武門の変によって高祖は退位したため、詔の内容が実施に移されることはなかった。崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神尭皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。太字は没後の追諡・封贈・追贈。張競『恋の中国文明史』ちくま学芸文庫、1997年

出典:wikipedia

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