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石原幹市郎

石原 幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年4月1日 - 1989年3月7日)は、日本の内務官僚。政治家。元参議院議員。初代自治大臣。元福島県知事(民選による初代知事)などの要職を歴任した。自由民主党に所属。岡山県出身。元衆議院議員・参議院議員の石原健太郎は長男。福島県議会議員石原信市郎、衆議院議員石原洋三郎は孫。栗本慎一郎の母方の親戚にあたる。東京帝国大学卒業後、内務省に入省。警保局に配属され、静岡、北海道、神奈川、埼玉などで警察畑を歩む。1936年に新潟県保険課長となり、1938年7月、内務省初代保険課長となる。国民健康保険法の法案作成に参画、施行とともに国保組合の設立を呼びかけ全国を回る。初年度に全国で174組合を設立した。その後、北海道庁経済部長を経て、食量の大消費地である東京都食料課長、大阪府経済部長、東京都経済局長を歴任。東京都信用保証協会の会長を務め、第二次大戦末期の食糧確保をはじめとする、苦しい台所を支えるために尽力する(一方では食料生産地の辛酸があった)。1946年には手腕を買われ官選の福島県知事。当時の地元紙によると、東京の台所を預かっていた石原を食糧供給県の本県に移し、前任者を食料基地の北海道に送ったのはいずれも食糧確保を狙った人事であると報じている。1947年初代民選福島県知事。戦後の食料問題と只見川電源開発に力を入れた。1949年、参議院議員補欠選挙で福島県選挙区から民主自由党公認で立候補し、当選。1959年6月18日に第2次岸内閣改造内閣に国家公安委員会委員長・自治庁長官として入閣。1959年の伊勢湾台風では本部長代理として現地で陣頭指揮を取り、遅々として進まなかった復旧作業を完遂させた。当時の朝日新聞によるとスタッフの述懐として、「東京での何十分の一の速さで話が決まるのには我ながら驚いた」と記されている。1960年7月1日、第2次岸内閣で初代自治大臣兼国家公安委員長に任命された。60年安保闘争時に石原は、柏村信雄警察庁長官と小倉謙警視総監と共に、緊急臨時閣議において警察の限界を認めて「警備力に限界がある」「警備に自信が持てない」と発言し、治安閣僚懇談会で佐藤栄作、池田勇人らが赤城宗徳防衛庁長官に自衛隊の治安出動を要求する事態になった。福祉の向上にも努め、自ら作り上げた皆保険制度の育成にも尽力、国保の生みの親、育ての親といわれる。外交的にはインド、ネパールとの国交改善にも力をいれた。1971年の参議院選挙で落選。返り咲きを目指した1972年の総選挙には、無所属で旧福島1区から出馬するが落選し、政界を引退した。引退後は福祉の道を歩む。電動車いすの開発に取り組み、手動式の電動車いすを完成させる。この快挙は全国各紙に報じられた。また、歩道の毎時5キロ以内の乗り入れ許可も得る。恩賜財団済生会の理事も勤め、当時破綻の危機にあった同財団にあって、「済生会の進む途」の道筋をつけた。

出典:wikipedia

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