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多利思比孤

多利思北孤は『隋書』「」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「」と記述している。開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。「」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。「」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。「」とあり、里数を知らず日で距離を測る。国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺であるとする。「」とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。隋使の裴世清らの道程は「」とあり、大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。竹斯國から東はすべて俀であるという。「」とあり、天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。隋の高祖は義理がないとしてこれを改めさせたという。また、「」とあり、12の官(冠位十二階)制度があるという。大業3年(607年)の国書に「」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「」)。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。しかし隋書には過去の倭が授かっていた、朝鮮半島の将軍や倭国王への任命や称号を日本側から求めたり、隋も印綬を多利思比孤へ支給する記述が出現しない。このことから単なる方角を表す表現と断定はできない。『隋書』はこの王を妻のいる男性としており、男性の王は『日本書紀』、『古事記』には記述が無い。『旧唐書』卷199上 列傳第149上 東夷 倭國 においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「」とあり多利思北孤を多利思比孤とし用明天皇としている。日本では直木孝次郎による多利思北孤は多利思比孤の誤りとする説が通説となっている。また、推古天皇か厩戸皇子(聖徳太子)のことだとする論者もいる。太子名(固有名詞説と普通名詞説がある)のうち利を和の誤りとする説がある。古来の大和言葉では、原則として「ら行」音は語頭に立たない(万葉仮名では語頭にr音が来ない)ことから、「利」を「和」の誤りとして「利歌彌多弗利」を「和歌彌多弗利」とする。また、「和歌彌多弗利」を源氏物語等にもあらわれる「わかんどほり(皇室の血統、皇族)」とする説もある。なお、『翰苑』には「王長子号和哥彌多弗利。華言太子。」とある。タラ(リ)シヒコは人名ではなく、日本語の意味を理解していなかった中国人が誤解したものという説がある。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる。一方で、熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している(この説は森田悌も支持している)。森田悌は邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている(また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。

出典:wikipedia

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