裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)は、7世紀前半に、中国王朝隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者。『隋書』によれば、俀王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業4年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗(唐朝の二代目皇帝李世民)の諱世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、そして東に進み、秦王國(辰王国?)に着いたという。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、蛮族と言われるのは理解出来ないとしている。竹斯國から東はすべて俀であるという。俀王は小徳(冠位十二階の位)阿輩臺が数百人で迎え、10日後に大礼の哥多が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎のことばに皇帝の命を伝えた。その後清は使者とともに帰国した。『三国史記』卷第27 百済本紀第5 武王9年3月によれば「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」とあり裴清は百済南部を経由したことが記述されている。『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。「鴻臚寺の掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。9月5日に難波大都に、11日に帰った。
出典:wikipedia
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