安岐 真人(あき まさと、1945年1月11日 - )は、香川県小豆郡土庄町出身の元ボートレーサー。登録番号は1864。なお、兄の安岐義晴と娘の安岐奈緒子も元ボートレーサーである。1945年1月11日、香川県小豆郡土庄町に生まれる。香川県立土庄高等学校を卒業後、岡山県玉野市の職員となるが仕事が面白くなく、出世の見込みもないことから見切りをつけ、兄の安岐義晴の勧めを受け競艇選手を志すようになった。3か月の養成期間を経て、1964年5月に丸亀競艇場でデビュー。初出走で1着となると2走目も連勝し、さらに最終日の優勝戦を優勝した。デビューから1年でA級に昇級した。やがて安岐は香川県を代表する競艇選手と評されるようになり、その存在は徳島県のエース格の中道善博とよく比較されていた。しかし引退間際まで若手の壁に君臨し続けた中道に比べると内弁慶的なムラっ気があり、中道との対戦は、安岐の一方的な負け越しであった。安岐は、大レースの優勝戦での2着が多かったことから「万年2位の名人」、「無冠の艇王」などと呼ばれた時期もあった。初めてSGを制したのは1988年の住之江競艇場で行われた笹川賞競走。この時のインタビューでアナウンサーから「それは涙ですか、汗ですか」と問われた際に「汗です、目から汗が出た。」と高見山大五郎の名台詞を引用したコメントを残している。この年は賞金王決定戦もを制し安岐時代が来ると思われていた。しかし翌年1989年11月11日に児島競艇場で転覆事故を起こして大怪我を負い、5か月の欠場を余儀なくされたその後も1990年6月に鳴門競艇場でプロペラが顔面を直撃して1か月間欠場、9月に丸亀競艇場で左足を負傷し骨折・靭帯切により3か月間欠場と欠場が相次いだ。その後の安岐は、低迷と好調のムラっ気が続く事になる。1996年の日本ダービー著名人予想対決と呼ばれるスポーツ紙の企画(競艇界からは、この他植木通彦と今村豊も参加)に中道と共に出演した安岐は、中道同様に本命・フサイチコンコルドを推す。しかし、安岐はまったく競馬の知識は無いようで、フサイチコンコルドを選んだ理由に「一は優勝だから縁起がいい」と言う理由からで、中道の「前走の阪神の短い直線で見せた切れ味のすごさは、府中でさらに効果がある」とまったく正反対であった。2005年4月にSG5勝、GI22勝を含む77回の優勝を果たし引退した。生涯獲得賞金額は、16億8906万2544。通算2123勝。現在はその功績を称え、ホームプールであった丸亀競艇場では安岐真人杯争奪瀬戸の大魔神大賞を年に1度開催している。引退後は「しばらくは競艇界の垢を落としたい」と言って、中道のように目立った評論家活動はしていない。現在、デイリースポーツに「魔人参上!!」というコラムを不定期に掲載している。2007年(平成19年)、ボートレースの殿堂入りを果たした。
出典:wikipedia
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