革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(かくめいてきろうどうしゃとうけんせつをめざすかいほうはぜんこくきょうぎかい、略称:解放派全協)は、社青同系の日本の新左翼党派の一つ。1981年に革労協狭間派から分裂して結成された。別称は労対派。1977年2月、革命的労働者協会(社青同解放派)は筆頭総務委員の笠原正義を当時敵対関係にあった革マル派に殺害された。これを契機に、徹底報復を主張する軍事路線志向の狭間嘉明らの学生活動家出身グループの狭間派と、大衆闘争や労働運動を重視する滝口弘人らの労働者グループ(労対派)とが対立するようになった。1981年6月、ついに労対派は革労協から分裂し、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」を結成した。この分裂を機に解放派社青同は事実上機能を停止する。労対派の名称は革労協労対部の潮流が中心となったからだとと言われる。その命名のルーツについては、現在もなお敵対している革マル派による、解放派の内部抗争と分裂に際する分析のためのカテゴライズ(区別化)のための名称である、という説がある(革マル派は機関紙上では「労対部官僚」という呼称を昔から使っていた)。東京社会主義学生会議が、社青同の組織に発展的に転化、東京外大で寮運動を行ない、東大に学士入学した滝口弘人が社青同東大学生班を結成(後に江田五月、横路孝弘も参加)。1968年12月 革マル派が早大文連及び早祭実支配のため、解放派メンバーを襲撃。解放派は早大より追いだされる。延長戦として、1月、東大闘争のさなか、駒場の解放派も襲撃する。その後、革マル派の支配になる狭間派の拠点であった北條委員長が居るなど、社青同解放派の拠点であった。1973年9月14~15日 深夜、新学期の直前、川口大三郎早稲田大生内ゲバ殺人事件を発端とし、早稲田解放闘争の継続を恐れた革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊約50人に4時間にわたり夜襲をかける(警察は介入しない、黙認?)。この結果、解放派部隊のほとんどが入院という大きな打撃を受け、反撃された革マル派2名が死亡(神大内ゲバ殺人事件)。1974年の横浜国大内ゲバ殺人事件では神奈川大学の学生が内ゲバの被害になっている。1996年に過激派(解放派)による國學院大學横浜たまプラーザキャンパスで起こった革マル派学生への内ゲバ殺人事件に絡む機動隊の強制突入により、全学自治会が大学内から追放されて以来、大学によって結成を禁止されている。
出典:wikipedia
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