布川事件(ふかわじけん)は、1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件である。犯人として近隣に住む青年2人を逮捕・起訴し、無期懲役が確定したが、証拠は被告人の自白と現場の目撃証言のみで、当初から冤罪の可能性が指摘されており、2009年、再審が開始され、2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。日本弁護士連合会が支援していた。1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川で、独り暮らしだった大工の男性(当時62歳)が、仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見された。茨城県警取手警察署による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の19時から23時頃であるとされた。男性は両足をタオルとワイシャツで縛られており首にはパンツが巻きつけられた上、口にパンツが押し込まれていた。死因は絞殺による窒息死であると判明した。現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。ただし、男性は個人的に金貸しを行っており、現金や借用書などが盗まれた可能性があった。唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかったことである。また、現場からは指紋43点が採集された。男性の自宅付近で20時頃に不審な2人組の男の目撃情報があり、その情報から1967年10月に2人の男が別件逮捕された。桜井 昌司(さくらい しょうじ)は、1947年1月24日に栃木県塩谷郡塩谷町で、役所吏員の父と野菜行商の母との間に生まれた。茨城県立竜ヶ崎第一高校に入学したが、家庭内不和などから中退し、その後は定職に就かず徒遊生活を送っていた。桜井は1967年10月10日の深夜、友人のズボン1本を盗んだとの容疑で別件逮捕され、取手署に留置された。桜井はすぐに窃盗容疑を認めたが、その後も別件と本件合わせて30日間に渡る勾留日数中、本件である強盗殺人についての取調べを受け続けた(窃盗の件は後に不起訴となった)。そして、10月15日に桜井が行った「杉山と一緒に殺して金を盗った」との自白に基づき、翌16日に桜井の兄の友人である杉山卓男が逮捕された。杉山 卓男(すぎやま たかお)は1946年8月23日に地元の利根町で生まれ、役所吏員であった父を亡くしてからは教員であった母に育てられた。桜井と同じく竜ヶ崎第一高校へ入学したが無免許運転で退学となり、その後は機械工をしていた。だが、母の死などで生活は荒れ、19歳の時には乱闘騒ぎで保護観察処分を受けていた。暴力団の抗争にも参加し、恐喝や喧嘩が日常となっていた杉山にとって、16日の逮捕も意外なことではなかったという。逮捕容疑は同年8月に起こした暴力行為事件についてであったが、やはり桜井と同じくこれは別件逮捕であった。別件での取調べ後は杉山も本件について引き続き調べを受け、翌17日に強盗殺人を自白した。10月23日に2人は本件強盗殺人容疑で逮捕され、12月28日に同容疑で起訴された。公判で両人は「自白は取手警察署刑事課刑事に強要されたものである」として全面否認したが、1970年10月6日に第一審の水戸地裁土浦支部は無期懲役とし、1973年12月20日の第二審の東京高裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴を棄却し、1978年7月3日に最高裁で上告が棄却され、2人とも無期懲役が確定した。同日から2人は千葉刑務所へ下獄することとなった。桜井は刑務所で詩を書いて雑誌に投稿するうち、声楽家の佐藤光政との知遇を得、やがて作詞作曲した歌は佐藤の声でCD化されるまでになった。後には書き溜めた詩が『語句詩集 壁のうた』と題した詩集にもなった。だが、桜井は服役中の1977年と1992年に両親を亡くしてもいる。杉山は、未決囚として東京拘置所に収監されていた頃は袴田事件の袴田巌や、大森勧銀事件の近田才典、金嬉老事件の金嬉老とも交流があったという。連続ピストル射殺事件の永山則夫とは特に親しく、運動時間には必ず会話し、文通も行う仲であったという。この事件では、犯行を実証する物的証拠が少なく、桜井・杉山の自白と現場の目撃証言が有罪の証拠であった。しかし、その自白は取調官による誘導の結果なされたと主張する。そのため、再審開始決定では「自白の中心部分が死体の客観的状況と矛盾する」とされ、「捜査官の誘導に迎合したと疑われる点が多数存在する」と認定された。他にも、「周囲が暗くなっている当時の状況などから、2人と特定できない」ともされた。また、検事から証拠として開示された事件当時の取り調べテープに中断(編集)した跡が何か所も見受けられること、女性が犯行現場で被告人以外の人を見ていたことなどが再審請求の時に検察から提出された証拠に含まれていた。これらの録音テープ、後述の毛髪鑑定書、女性の目撃証言は2度目の再審請求の際に検察が初めて開示した。確定審においては、検察は録音テープの存在を否定していた。なお、現場では毛髪が8本発見され、この毛髪の鑑定書については検察側が存在を否定していたが、2005年に検察側から弁護側に鑑定書が開示された。これによると、3本は被害者のものだったが、残り5本の中に被疑者とされた桜井・杉山の毛髪はない。裁判所はこれらの証拠が裁判時に提出されていたら無罪になっていた可能性を指摘した。2005年からの刑事訴訟法改正では、検察の証拠開示が明確に制度化されているが、公判前整理手続きがないため、この事件においてはこの制度は適用されていない。収監された2人は1996年11月の仮釈放後も無実を訴え、民間人の有志による「布川事件守る会」が2001年12月6日に第二次再審請求(1回目は収監中の1983年12月23日に行われ棄却された)を水戸地裁土浦支部に申立て、同支部は2005年9月21日に再審開始を決定した。これに対して検察側が東京高裁に即時抗告するが、2008年7月14日、東京高裁(門野博裁判長)は棄却して再審開始決定を支持する。東京高検の鈴木和宏次席検事は「内容を十分検討し、最高検とも協議のうえ適切に対処したい」と述べ、その後、最高裁判所に特別抗告するが、2009年12月15日、最高裁(竹内行夫裁判長)は、検察側の特別抗告を棄却し再審開始が確定。2010年7月9日に水戸地方裁判所土浦支部にて再審第1回公判が開かれる。以後6度の公判を重ね、判決は2011年3月16日に言い渡しを予定していた。しかし直前に発生した東日本大震災(3月11日)の影響により判決公判が5月24日に延期となった。2011年5月24日、仕切り直しの判決公判が行われ、被告の両名に強盗殺人罪について無罪、別件の窃盗罪や暴行罪について懲役2年・執行猶予3年の判決が言い渡された。なお、別件については猶予期間は既に満了、実質、刑の言渡しの効力を失っている。検察側は「控訴審での新たな立証は困難と判断した」として、強盗殺人罪について6月7日控訴を断念、無罪判決が確定した。再審無罪判決では目撃証言を含む全ての状況証拠について、その能力及び信用性が否定された。本事件で再審無罪までにかかった期間は44年であり、これは戦後に起きた事件の中で最長である。8月29日、2人は水戸地方裁判所土浦支部に、刑事補償法に基づき補償を請求。金額は各1億3千万円(12500円×365日×29年)。さらに1審から上告審までにかかった裁判費用の約1500万円を支払う決定を出した。2012年12月12日には、冤罪の責任追及のため、桜井が国と茨城県を相手に国家賠償請求訴訟を提起した。一方で杉山は、「妻や息子と過ごす時間を犠牲にしてまで、いつ終わるかもわからない、長い長い裁判を、私は闘う気持ちにはなれない」として、同様の訴えは起こさなかった。その後の桜井は、冤罪防止のため取り調べの可視化を訴える活動を行っている。杉山もまた取り調べの可視化を様々な国会議員に訴えていたが、「可視化を検討する勉強会」を開いて満足するばかりの議員らに、やがて愛想を尽かした。だが、免田事件の免田栄、足利事件の菅家利和、狭山事件の石川一雄、そして筋弛緩剤点滴事件の守大助(獄中)といった他の冤罪関係者との交流は続いたという。その後、杉山は2015年10月27日に死去した。
出典:wikipedia
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