梶谷 隆幸(かじたに たかゆき、1988年8月28日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属する島根県松江市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。松江市立持田小学校4年生の時に「持田ボンバーズ」で軟式野球を始める。松江市立第二中学校野球部を経てクラブチームの乃木ライオンズシニアに所属。開星高等学校3年生の夏には甲子園に出場している。の高校生ドラフト会議で横浜ベイスターズから3巡目で指名を受け入団。12月11日に行われた入団会見ではY字バランスを披露した。一軍公式戦への出場機会はなく、イースタン・リーグ公式戦でも、52試合の出場で打率.136に終わった。2年続けて一軍への昇格を見送られたが、イースタン・リーグ公式戦で遊撃手のレギュラーに定着。84試合の出場で、打率.250、19打点、14盗塁という成績を残した。4月9日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(横浜スタジアム)で、二塁の守備要員として一軍デビュー。シーズン通算では、一軍公式戦22試合に出場するとともに、同月30日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で一軍初本塁打を放った。一軍公式戦での出場はわずか5試合(4打数0安打)にとどまったが、イースタン・リーグ公式戦では、湘南シーレックス史上最多のシーズン33盗塁を達成。同リーグの盗塁王も獲得した。故障などの影響で一軍公式戦への出場機会はなく、イースタン・リーグ公式戦でも、盗塁数を大幅に減らすなど成績を落とした。シーズン終了後には、金本知憲・野村謙二郎や新井貴浩・良太兄弟も通う広島市内のトレーニング・ジム「アスリート」で、肉体改造に勤しんだ(詳細後述)。この年から一軍監督に就任した中畑清が「機動力野球」という方針を掲げたことを受けて、オープン戦で17試合に出場。打率.347(セ・パ12球団の規定打席到達者中6位)、12球団トップの13盗塁という好成績を残したため、3月30日には阪神との開幕戦(京セラドーム大阪)に「1番・遊撃手」としてスタメンに起用された。開幕後もスタメンでの起用が続いたが、二軍降格を経験するなど、深刻な打撃不振に陥った。結局、一軍公式戦では、80試合の出場で打率.179と低迷。そのため、秋のフェニックスリーグでは、中畑から直々に指導を受けた。レギュラー二塁手・内村賢介のバックアップ要員として迎えた前半戦では、守備で凡ミスを連発したため、一時は二軍調整を余儀なくされた(詳細後述)。再昇格後に復調したものの、7月11日の対広島東洋カープ戦(横浜)で、二塁へのスライティング中に右足首を痛めて戦線離脱。しかし、戦線に復帰した8月には、81打数33安打、打率.407、8本塁打、22打点という好成績でベイスターズ打線を支えた。終盤には成績を若干落としたが、シーズン全体では、一軍公式戦77試合に出場。規定打席には届かなかったものの、打率.346、7盗塁、自己最多でチーム2位の16本塁打を記録した。シーズン終了後の11月には、台湾で催された「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」に、日本代表の一員として全3試合にスタメンで起用。7打数3安打2打点という成績を残した。この年から外野手に転向するとともに、背番号を3に変更。開幕から主に、「3番・右翼手」として起用された。しかし、5月下旬から失速。6月には、月間打率は.151、本塁打無し、月間8安打と低迷した。7月には、打率.368を記録するなど復調。中距離打者のユリエスキ・グリエル内野手が5月下旬に入団したことから、シーズン後半には、1番打者を任せられることが増えた。さらに、荒波翔の故障離脱や金城龍彦の不振によって、中堅手としての起用も増加。シーズン通算では、一軍公式戦142試合に出場するとともに、39盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。初めて規定打席に到達したが、打率(.263)が前年を下回ったほか、リーグワースト3位の135三振を喫した。しかし、守備では両リーグ2位のUZR11.2、補殺も8という成績を記録した。主に「3番・右翼手」としてレギュラーに定着するとともに、チームの前半戦首位ターンに貢献。前半戦終了後のオールスターゲームには、自身およびチームの好調を背景に、セントラル・リーグ外野手部門のファン投票3位で初出場を果たした。一軍公式戦全体では、自己最多の134試合に出場。打率.275、3年連続の2桁本塁打(13本塁打)、リーグ2位の28盗塁、リーグトップの得点圏打率.352を記録した。守備でもUZRで両リーグ2位の7.6、補殺8という好成績を収めた。2年連続でシーズン終了後には、自己最高額の推定年俸8,300万円(3,700万円増)で契約を更改している。11月に開催の第1回WBSCプレミア12では、7月16日に日本代表の第1次候補選手として発表されたものの、最終ロースターの28名に残らなかった。中畑に代わって一軍監督へ就任したアレックス・ラミレスが、「2番・中堅手」として起用することを明言。2月の春季キャンプ中には、3月開催の「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」に向けて、日本代表へ再び選出された。しかし、一軍キャンプ中盤の守備練習でフェンスへ激突。その影響で故障(球団の発表では「左脇腹の筋肉炎」)が生じたため、キャンプを離脱したうえで、前述の日本代表を辞退した。実際には肋骨・筋肉の損傷や骨挫傷を伴う重傷で、3月中旬の調整中に患部を再び痛めたことから、一軍への再合流は5月4日の対ヤクルト戦(横浜)まで持ち越された。もっとも、公式戦の開幕からリーグの下位に低迷していたチームは、梶谷の再合流を境に上位争いを展開。梶谷自身も、前述した故障の影響で前年から出場試合が減ったにもかかわらず、自己最多の18本塁打を記録するなどの活躍でチームを史上初のクライマックスシリーズ進出へ導いた。ポストシーズンでは、巨人とのクライマックスシリーズ ファーストステージ第1戦(10月8日)で、3回表にマイルズ・マイコラスから放った打球が東京ドームのバックスクリーン右側を直撃。この打球によって、チームのクライマックスシリーズ初本塁打と初打点を記録した。ファーストステージ第3戦(10月10日)の第1打席で、内海哲也からの死球によって、左手薬指の末節を骨折。しかし、チームの同ステージ突破を経て臨んだ広島とのファイナルステージでも、右翼手として全4試合にスタメンで出場した。チームは第4戦(10月15日)の敗戦によって日本シリーズへ進出できなかったが、梶谷自身は、12日の第1戦で2安打を記録。14日の第3戦では、5回表の打席での適時打によってクライマックスシリーズ初打点を挙げると、3点リードの8回裏2死満塁で新井貴浩が右翼のファウルゾーンへ放った打球に左手を伸ばしてダイビングキャッチを成功させた。この試合でチームがファイナルステージ初勝利を挙げると、第4戦で2点本塁打を放つなど、骨折をものともしない活躍を見せた。50m走5秒7の俊足が武器。高い身体能力の持ち主。2011年のオフシーズンには、「アスリート」でのトレーニングによって、体重を74kgから80kg、除脂肪体重を67.4kgから73.6kg、体脂肪率を9.0%から8.0%にそれぞれ増減させた。「アスリート」の平岡洋二代表は、梶谷について「150人に迫るプロ野球選手の指導歴の中でもトップクラスの肉体。3割・30本塁打・30盗塁のトリプルスリーさえ達成可能な、無限の可能性を秘めた肉体である」と語っている。特に、筋力がその身体能力の裏付けとなっており、スクワットは190kg・ベンチプレスは110kgを記録している。これは体重当たりの筋力に換算すると、2.35倍・1.35倍となり、平岡氏によればこれまで指導してきたプロ野球選手の中でもトップクラスである。身体能力が高い一方で、内野手時代には、守備面でイージーミスやボーンヘッドを犯すことがあった。二塁手として出場していた2013年4月9日の対広島東洋カープ戦(横浜)では、3回表2死満塁の場面でゴロを処理した遊撃手の石川雄洋が封殺を狙って二塁へ送球。梶谷がベースカバーに入らず一塁方向へ走っていたため、石川は慌てて一塁への送球に切り替えたが、内野安打になったばかりか2人の走者の本塁生還を許した。このプレーが原因で、梶谷は試合後に中畑から二軍への降格を伝えられている。外野手へのコンバート後は、守備力の総合指標であるUZRで、リーグトップの数値を示している。開星高等学校時代に監督として梶谷を指導した野々村直通は、梶谷の性格について、「私がバッティングについて『こういうふうにやれよ』と言っても、練習を見たらしていなかったりするが、プロではいろんな人の意見を聞いて自滅することも多いため、むしろよかったのでは」と語っている。なお、2016年には、梶谷と同じ松江市出身・同校OBで6年後輩の白根尚貴が福岡ソフトバンクホークスからDeNAに移籍している。
出典:wikipedia
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