エリモジョージとは日本の競走馬である。セントクレスピンを父に持つ、1976年天皇賞(春)・1978年宝塚記念優勝馬。同期にはカブラヤオー・テスコガビーがいる。勝ち負けの極端な成績で、「気まぐれジョージ」と呼ばれた。1974年8月10日に函館競馬場でデビューし、新馬戦を2着ののち折り返しの新馬戦で初勝利を挙げる。デイリー杯3歳ステークス14着・白菊賞1着を経て阪神3歳ステークスで初めて福永洋一と組み、人気薄で3着に逃げ粘りこのシーズンを5戦2勝で終えた。4歳緒戦のシンザン記念で重賞初勝利を挙げるが、これが最初で最後の1番人気の勝利となった。このレースの実績を得てクラシック戦線に参入したが、毎日杯では1番人気で6着に敗れ、スプリングステークスでも2番人気の7着に終わった。皐月賞では9番人気で3着に入ったものの、同期のカブラヤオーの存在もあり、着順が人気を下回るレースが続いた。夏の札幌記念(当時はダート重賞)に出走して敗れた後、えりも農場で休養に入った。ところが、休養先のえりも農場の厩舎が原因不明の火災に巻き込まれてしまう。エリモジョージは救い出されたものの、事故の影響から長期休養となり、4歳シーズンを終えた。5歳シーズンのはじめに復帰し、池添兼雄を騎手に迎えて4回出走した。勝つことはできなかったが、サンケイ大阪杯と鳴尾記念で連続して3着に入り、上向きの状態で騎手を福永に戻し、天皇賞(春)に出走した。17頭立て12番人気という低評価であったが、福永は馬場状態の悪さ(不良馬場)を考慮して逃げ戦法を取り、ロングホークの追撃を振り切って優勝した。このレースの実況を担当した関西テレビの杉本清は、前述の火災による悲劇に絡め「見てるか天国の仲間たち、俺はお前たちの分まで走ったぞ!勝ったのはエリモジョージです。何もないえりもに春を告げた」という森進一の「襟裳岬」の一節を引用した名実況を残している。その後エリモジョージは宝塚記念で7着、短距離ステークス(カブラヤオーが優勝)6着・巴賞7着と3連敗した。60キログラムの斤量を背負った函館記念では9頭立ての8番人気であったが、2:00:9のレコードタイムで勝利した。京都大賞典では逃げきれず9着に敗れたが、次に出走した京都記念(秋)では、61キログラムの斤量が不安視されたが、大逃げを打ち、当時の日本レコード2:25:8を記録して勝利した。その後クモハタ記念は4着に敗れ、2番人気に推された有馬記念では直線で力尽きてトウショウボーイの6着に終わった。6歳になっても不安定な成績は変わらず、金杯(西)で7頭立て1番人気で7着に敗れたのを皮切りに5連敗した。脚部不安で休養に入り、休養明けの中京競馬場でのオープン競走を好位差しで制したが、続く阪神大賞典では9着に敗れた。7歳シーズンに入ると、初戦の日本経済新春杯で4着に敗れた後、再び福永洋一が騎手に起用され、京都記念と鳴尾記念を連勝した。続く宝塚記念ではグリーングラス・ホクトボーイらを相手に4馬身差で逃げ切って勝利し、福永に「競走馬として完成した」と言わしめた。しかし次走の高松宮杯でしんがり負けを喫すると不振に陥り、ラストランとなった8歳時の宝塚記念まで1勝もできずに引退した。引退後は種牡馬となり、当初は年間50頭前後の牝馬を集めるなどまずまずの人気を博したが、中央で5勝を挙げ1988年の秋の天皇賞にも出走を果たしたパリスベンベが目立つ程度と種牡馬としては結果を残せずに終わった。なお母の父としては京都ハイジャンプを制し中山大障害でも3着に入ったメジロライデンを送り出している。カブトシローと並び評されるエリモジョージであるが、気性面の悪さも勝るとも劣らなかった。それ故に癖馬レベルも高く、騎手として全盛期を迎えていた福永でもわからんと言わしめる程であった。
出典:wikipedia
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