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由木村

由木村(ゆぎむら)は東京都の南多摩郡に属していた村。なお、現存する地名に基づいた「柚木村」という表記がしばしば見られるが、これは誤りである。現在の八王子市鑓水・中山・上柚木・下柚木・越野・堀之内・南陽台1〜3丁目・南大沢・別所・松木・松が谷・鹿島・東中野・大塚の全域と絹ケ丘3丁目の一部。由木は古い文献では柚木あるいは由儀とも書かれており、その語源にはいろいろな説がある。 たとえば、紙の原料として知られる楮の中で、神に供えた優等な布を「ユフ」といったといい、楮は自由に採取できるほど山野に自生してなかったので生産地は保護されていたという話から、ユフの産地を意味する由ノ木と呼ばれ、それが転じて「由木」になったという説や、柚子のことをユーまたはユヒというので、柚子が多かったことが由来になったという説もある。南陽台、絹ヶ丘、松が谷、鹿島は八王子市合併後新設された地区であり、由木村時代は鑓水、中山、上柚木、下柚木、越野、堀之内、南大沢、別所、松木、東中野、大塚の11の大字で構成されていた。鑓水の北端に位置する標高213.4mの大塚山が村内最高地点。多摩丘陵の低くなだらかな山が村内を取り囲んでいる。多摩川の支流である大栗川が村内を東西に横断するほか、太田川、別所川、寺沢川、谷津入川などの支流が流れる。多摩丘陵の谷戸から湧水が豊富に湧出するため河川は多い。水に恵まれた土地のため、池も多い。由木村の産業はほぼ農業で占められていた。中でも広く行われていたのは養蚕と酪農である。とくに酪農は由木村長を二度務めた農業指導者の井草甫三郎が千葉県より子牛1頭を導入したことが多摩酪農の先駆けとなり、井草の指導もあり、村全域で行われる一大産業となった。当時「牛といえば井草、酪農といえば由木村」と言われるほど、全国にその名は知れ渡ったという。また、掘抜き井戸の地下水を利用した養魚業も行われていた。農家の副業として、農閑期に目籠づくりが行われた。田口久兵衛が由井村から伝習して製造を始めたのが最初だといい、のちに由木村は目籠の一大生産地にまで発展した。合併時点の1964年において、議員の定数は13人であった。1898年、村内にある永林寺の一室を借りる形で由木村役場が設置される。1913年、専用の庁舎が完成し永林寺から移転する。1957年には新庁舎が完成し再び移転する。合併後は八王子市役所由木事務所となる。下記の一覧は1964年由木村合併時のもの。明治時代より学校の新設・統合・改称が繰り返されてきており、その経緯は複雑である。詳細は各学校のリンク先を参照のこと。なお、中央大学の多摩キャンパスへの移転計画は由木村時代から行われており、1960年の用地取得当初は由木村時代であったことから、当初のキャンパスの名称は「由木校地」が予定されていた。周囲を多摩丘陵に囲まれているため、峠が多い。1924年(大正13年)、鑓水の有力者大塚卯十郎によって、津久井郡の川尻村(現・相模原市)から由木村内を横断し、多摩一の宮(現・多摩市)まで鉄道を敷設したうえで玉南電鉄(現・京王電鉄)に接続し新宿駅まで電車を直通させる南津電気鉄道の建設が計画される。1926年(大正15年)には鉄道免許を取得し、工事も第一期区間である鑓水近辺では一部レールの敷設も完了し、架線柱用の丸太まで準備されていたというが、1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響で生糸の価格が暴落し、資金繰りが悪化したため工事は中断し、混乱の末計画はとん挫した。以来、合併まで由木村に鉄道が敷設されることはなかったが、合併後の1988年(昭和63年)に京王相模原線が南大沢駅まで延伸開業した。南大沢の「粉屋踊り(こなやおどり)」が有名であった。その他、旧村内各地域で祭囃子などの伝統芸能が現在でも保存されている。由木村のある南多摩郡では、当時、合併や町制施行が相次いでおり、由木村もその対応が迫られていた。当時、由木村の村民の中には、石井栄治村長を中心とした八王子市との合併を目指す派閥と、日野市との合併を目指す派閥に分裂する事態が起こっていた。そして、その対立は大変深刻なものとなっており、新聞記事にも載るほどになっていた。結局、事態を収拾するため住民投票で合併先を選択することとなり、八王子市合併派が日野市合併派を上回る結果となったため、八王子市との合併に至った。また、日野市合併派の一部住民は、八王子市に合併後も八王子から分村するように働きかける等、しばらくの間抵抗を続けた。

出典:wikipedia

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