大阪市立恵美小学校(おおさかしりつ えみしょうがっこう)は、大阪市浪速区にある公立小学校。浪速区の南東部を校区とし、校区には通天閣や今宮戎神社がある。2000年代時点では小規模校となっている。明治時代初期の学制発布により、1873年3月12日に当時の西成郡今宮村6番地・今宮村戸長役場2階に第六大区一小区第一番今宮小学校が設置された。この時に設置された今宮小学校が、恵美小学校の起源となっている。当時の今宮村の村域は、現在の地名では浪速区中部~南部と西成区の北部~中部にあたる。今宮小学校は当時の今宮村全域を校区とした。小学校令の公布により、1886年に西成郡今宮尋常小学校へと改編された。さらに1896年3月には高等科を併設している。1896年4月1日付で大阪市の第一次市域拡張が実施されたことに伴い、今宮村のうち大阪鉄道(現在の関西本線)の線路以北が大阪市に分割編入されることになった。これに伴い、大阪市に編入された地域に位置していた今宮小学校は大阪市立となり、大阪市恵美尋常高等小学校と称した。一方で今宮村南部は、同様に北部を大阪市に分割編入された西隣の木津村と合併した上で、新たな今宮村として存続することになった。今宮村として存続した地域には当時小学校がなかったため、恵美小学校では引き続き今宮村からの児童を受け入れていた。1898年には新たな今宮村独自の小学校として、西成郡今宮尋常小学校(現在の大阪市立弘治小学校)が開校した。今宮(弘治)小学校の創立に伴い、恵美尋常高等小学校の校区から今宮村を分離し、今宮村在住の児童は今宮尋常小学校に通学するようになった。地域の児童数の増加により、1904年に大阪市恵美第二尋常小学校(のちの大阪市立浪速津国民学校)が分離開校した。恵美第二尋常小学校の敷地は、現在の大阪市立日本橋中学校の場所にあたる。恵美第二小学校の開校に伴い、従来の恵美尋常高等小学校は大阪市恵美第一尋常高等小学校に改称している。また1919年には、大阪市恵美第三尋常小学校(のちの大阪市立戎国民学校)を分離している。恵美第三小学校の敷地は、現在の住所表示では浪速区戎本町2丁目6番付近、大阪府立今宮高等学校東側および大阪市立木津中学校南側付近にあたる。1941年には国民学校令が実施された。これに伴い1941年4月1日付で、恵美第一尋常高等小学校は大阪市恵美国民学校、恵美第二尋常小学校は大阪市浪速津国民学校、恵美第三尋常小学校は大阪市戎国民学校へと改称された。太平洋戦争の戦局悪化により、1944年以降学童集団疎開が実施されることになった。集団疎開先は各行政区ごとに指定され、浪速区の小学校の集団疎開先は滋賀県が割り当てられた。恵美国民学校では滋賀県栗太郡笠縫村・山田村(現在の草津市)へと学童疎開を実施している。また浪速津国民学校では滋賀県栗太郡瀬田町(現在の大津市瀬田)、戎国民学校では滋賀県甲賀郡貴生川町(現在の甲賀市水口町)へと集団疎開を実施した。また恵美・浪速津・戎の各国民学校とも高等科を併設していた。しかし大阪市が高等科を1行政区あたり1-2校に集約・統合する方針をとったことに伴い、いずれの高等科も1945年に廃止され、大阪市南栄国民学校へと統合された。1945年の大阪大空襲では、浪速区全域にわたって壊滅的被害を受けた。3月13日の第1回大阪大空襲では戎国民学校が全焼し、恵美・浪速津の両校校舎も半焼の被害を受けている。また恵美・浪速津・戎の各校校区の被害も甚大だった。太平洋戦争の戦災の影響で、大阪市では1946年4月1日付で、校舎・校区の被害の大きかった国民学校は近隣校と合併する形で休校措置にした。このため浪速津・戎の両国民学校は1946年4月1日付で休校(のち正式に廃校)となり、恵美国民学校へと統合された。戦前に分離した3校が再び1校に統合される形になり、翌1947年には学制改革により大阪市立恵美小学校へと改称している。
出典:wikipedia
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