大阪市立南小学校(おおさかしりつ みなみしょうがっこう)は、大阪市中央区にある公立小学校。都心部のドーナツ化に伴う児童の減少により、1987年に当時の南区にあった大宝(だいほう)・道仁(どうにん)・芦池(あしいけ)の3小学校を統合して設置された。学校敷地は旧大宝小学校のものを転用している。さらに1995年には大阪市立精華小学校を統合している。校区は難波・心斎橋・島之内など広い地域にわたっている。本稿では南小学校に加え、直接の前身校となる大宝・道仁・芦池・精華の4小学校、さらに前身校に合併して廃校となった学校の沿革についても記述する。1872年の学制発布を受け、当時の大阪・南区に次々と小学校が設置された。1873年2月9日、南大組第十四区小学校(精華小学校)が開校した。坂町小学校・新川小学校・相生小学校などと改称したのち、1900年6月には戎橋筋に移転し、精華尋常小学校と称した。1872年3月15日に南大組第十区小学校(大宝小学校)、1873年12月13日に南大組第九区小学校(千年小学校)が開校した。大宝小学校は1873年に最終所在地(現・南小学校敷地)に移転した。大宝・千年の両小学校は1886年に合併し、清泉尋常小学校となった。旧大宝校を本校・旧千年校を分校とした。1893年には大宝尋常小学校の名称に復している。また旧千年小学校敷地を使用し、1900年に大阪市立第二高等女学校(1901年大阪府立清水谷高等女学校に合併)、1906年に大阪府島之内高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)が開校している。1872年8月25日に清水小学校、1873年2月12日に三津小学校が設置された。2校は1880年に合併し、南区西清水町(現在の中央区西心斎橋)・旧清水小学校敷地に三津清水小学校を設置した。三津清水小学校は1886年に御津尋常小学校へと改称した。1872年9月18日、南大組第五区小学校(渥美小学校)が創立した。安堂小学校などの名称を経て、1886年に渥美尋常小学校となった。1873年3月、南大組第十一区小学校(道仁小学校)が開校した。1886年には雄帷尋常小学校と称したが、1893年には道仁小学校の名称に戻している。1873年6月24日、南大組第六区小学校(芦池小学校)が創立した。1887年には芦池尋常小学校へ改称している。また西成郡難波村の難波尋常高等小学校(のち大阪市立難波小学校、現在は大阪市立難波元町小学校へ統合)川東分校が1891年に設置され、1893年に西成郡難波第三尋常小学校(1897年大阪市に編入)として独立した。難波第三尋常小学校は1921年、難波河原尋常小学校へと改称している。明治時代中期以降昭和時代初期まで、現在の校区にあたる地域には、精華・大宝・御津・渥美・道仁・芦池・河原の7小学校が設置されていた。国民学校令により、1941年に各尋常小学校は国民学校へと改編された。基本的に従来の小学校名をそのまま国民学校の名称として受け継いだが、難波河原尋常小学校については冠称の「難波」をとり河原国民学校となった。1943年には大阪市の行政区の変更により、河原国民学校校区が浪速区から南区に編入された。大阪市では明治時代後期以降、中等教育諸学校の入学難状態が慢性化していた。中等学校の入学難解消の一環として、大阪市では1940年代、市立の中等教育諸学校を増設する策がとられた。また太平洋戦争の戦時体制の一環として、男子商業学校を工業学校へと転換させる政策もおこなわれた。これに伴う商業学校不足に対応して女子商業学校を増設して戦時動員を図る体制がとられた。中等学校の校地を探し校舎を新設する余裕がないとして、既存の国民学校を近隣校に統合させる形で廃校とし、空いた校舎を中等学校として転用する策をとった。地域では御津・芦池・河原の3校が校舎転用の対象となった。御津国民学校は1944年に大宝国民学校に統合されて閉校となった。跡地に御津女子商業学校(1948年天王寺商業学校と合併、のち大阪市立天王寺商業高等学校)が新設された。芦池国民学校は1944年に渥美国民学校に統合されて閉校となった。跡地に芦池女子商業学校(1948年住吉商業学校と合併、のち大阪市立住吉商業高等学校)が新設された。河原国民学校は1944年に精華国民学校に統合されて閉校となった。跡地には河原女子商業学校(1948年学制改革で廃校)が設置された。1944年時点では、地域の国民学校は精華・大宝・渥美・道仁の4校となった。太平洋戦争の戦局悪化により、1944年には大阪市を含む大都市の国民学校初等科児童を学童疎開させる方針が決定した。縁故疎開に頼らない児童は学校単位で集団疎開を実施することになった。大阪市では国の方針を受けて学童疎開を具体化し、当時の22行政区各区ごとに疎開先の府県を指定した。当時の南区では滋賀県への疎開が割り当てられ、1944年8月下旬以降疎開先へと出発した。大宝国民学校は犬上郡高宮町(現・彦根市)、東甲良村・西甲良村(現・甲良町)、多賀村(現・多賀町)、道仁国民学校は愛知郡愛知川町・秦川村(以上、現在の愛荘町)、日枝村(現・豊郷町)、精華国民学校は愛知郡東押立村・豊椋村・西小椋村・角井村(いずれも現在の東近江市)、渥美国民学校は長浜市へ、それぞれ集団疎開が実施された。1945年3月13日深夜から翌3月14日未明にかけての第一次大阪大空襲では、当時の南区は壊滅的な被害を受けた。大阪大空襲により渥美国民学校は全焼している。大宝・道仁・精華の各校は校舎被災を免れたものの、校区に大きな被害を受けた。空襲被害以降、各校とも児童数が激減し、渥美校に至っては1945年度の新入生は0だった。また太平洋戦争の終戦に伴い、大阪商科大学(現在の大阪市立大学)の杉本町学舎はGHQに接収された。そのため大阪商科大学は、焼け残った道仁小学校校舎に仮校舎を置くことになった。校舎の焼失や転用・児童数減少などの状況が重なり、大阪市では被災した国民学校を近隣校に統合することになった。そのため1945年秋より近隣校は大宝国民学校を借用して授業を実施し、1946年には道仁・精華・渥美・高津の各校を休校として大宝国民学校に統合することになった。現在の南小学校校区にあたる地域には、終戦直後には大宝国民学校1校のみとなった。なお精華国民学校は休校中、大阪市の文化会館などに転用された。戦中に休止状態になっていた大阪市立図書館は「大阪市立育英図書館」の名称で、精華小学校敷地を使用して復興している。1947年には学制改革により、大阪市立大宝小学校が発足した。その後戦災からの復興により、休校となった学校の再開を求める地域住民の声があがるようになった。1948年には大阪市立精華小学校が再開している。芦池小学校校区は1944年に渥美小学校に合併されたのち、戦後は渥美小学校の休校に伴い大宝小学校校区に編入された形になっていた。芦池小学校跡地は芦池女子商業学校として使用され、1948年の学制改革の際には住吉商業学校と合併し、旧芦池校敷地で新制大阪市立住吉商業高等学校となった。住吉商業高等学校は1952年、住吉区(現・住之江区)の旧住吉商業学校敷地に復帰した。住吉商業高等学校の退去後、地域住民の学校再開の希望を受け、1952年に元の敷地で大阪市立芦池小学校が再開している。また1952年には、大阪市立高津小学校も再開した。大阪市立道仁小学校は1954年に再開している。1954年以降、地域には大宝・道仁・芦池・精華の4小学校が立地する形になった。なお戦前の渥美・御津・河原の3校は再開することなく廃校となっている。しかし都心部のドーナツ化現象による地域人口の減少に加え、1960年代後半以降越境入学に対して厳しい対応がとられるようになったことも加わり、1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになった。そのため大宝・道仁・芦池の3小学校統合の構想が具体化した。統合校は大阪市立南小学校と名付けられ、旧大宝小学校の敷地を転用して1987年4月1日付で開校した。さらに1995年3月31日付で精華小学校が閉校となり、翌4月1日付で南小学校に統合されている。道仁小学校跡には大阪市立中央会館・大阪市立島之内図書館・大阪市立中央スポーツセンターからなる複合施設が建設されている。また精華小学校跡は生涯学習ルームや精華小劇場に転用されていたが、地元住民にコミュニティ施設用地として貸付ける部分を除き、成信に売却された。芦池小学校跡は大阪市立南幼稚園運動場となっている。渥美小学校跡は大阪市立南中学校分校が置かれたのち、大阪市立南高等学校のグラウンドとなった。御津小学校跡は戦後大阪市立南中学校本校として使用されたのち、南中学校の移転後にビッグステップが建設された。河原小学校跡は大阪市立南市民病院(1950年開院・1966年閉院)を経て河原センタービルが建設されている。旧・大阪市芦池尋常小学校旧・大阪文化会館旧・大阪市立道仁小学校旧・大阪市立精華小学校
出典:wikipedia
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