津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日(1855年2月15日) - 明治24年(1891年)9月29日)は、明治時代の日本の軍人、警察官。ロシア帝国皇太子ニコライを切りつけ、負傷させた大津事件を引き起こしたことで知られる。武蔵国豊島郡下谷(現在の東京都台東区)に津藩藤堂家藩医の次男として生まれた。後に三重県伊賀上野(現伊賀市)に移住。明治3年に上京、東京鎮台に入営し、明治5年3月、陸軍名古屋鎮台に転じ、翌明治6年3月、越前護法大一揆鎮圧のため乃木希典少佐の部下として出動した。同明治6年7月、金沢分営に転属。明治10年(1877年)の西南戦争勃発時は金沢歩兵第7連隊第1大隊附の伍長であった。3月11日、第7連隊は高島鞆之助率いる別働第一旅団に編入され、3月20日、西郷軍の背面、日奈久(現八代市)に上陸するが、同月26日、左手に銃創を負い熊本の八代繃帯所に入院。長崎に移され5月20日に退院後、鹿児島の本隊に復帰し、6月1日より歩兵第1連隊第1大隊長古川氏潔少佐附書記となり、鹿児島、宮崎を転戦。その間軍曹に昇進した。10月22日、金沢に帰還。戦後の明治11年、戦闘での疲れからかたびたび病に陥り入退院を繰り返していたが、そのさなかの10月9日、功績が認められ勲章(勲七等)を授与された。明治15年1月9日、陸軍を退役し、同年3月15日、三重県警巡査となり松阪署に勤務した。明治18年、親睦会で同僚に暴力をふるい免職となる。同年、滋賀県警に採用される。明治24年(1891年)5月11日、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場において、ニコライをサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。犯行の動機を裏付ける供述は得られておらず諸説ある。ロシアの日本への強硬な態度に不満を持っていたからともいわれ、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述をしたため、斬りつけはしたが、殺意はなかったともいわれる。津田には精神病歴があった。事件後津田は、巡査を免職されると同時に先述の勲章も剥奪された。そして無期徒刑の判決を受け、北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが、同年9月29日に急性肺炎のため獄死した。旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日記が残されている。
出典:wikipedia
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