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与謝蕪村

与謝 蕪村(よさ ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数ある。摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。その後、丹後を歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。蕪村に影響された俳人は多いが特に正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことは良く知られ、『俳人蕪村』(現在は講談社文芸文庫)がある。旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が「夜半亭蕪村句集」を見つけたと発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録。上記の他に、蕪村の俳諧の門弟でパトロンでもあった寺村百池の家に伝わった絵画、短冊、書状等の遺品一括が「与謝蕪村関係資料」として重要文化財に指定されている(1987年指定、文化庁保管)。尾形仂・丸山一彦ほか編の『蕪村全集』全9巻が、講談社で1992年5月より刊行開始、(後半2巻が遅れ)17年かけ2009年9月に完結。

出典:wikipedia

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