『集史』(しゅうし、 Jāmi` al-Tavārīkh、 Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。ガザンは即位以来、チンギス・カンの後裔フレグ、ひいてはそのフレグ家の当主である自らのもとにイルハン朝領域下のモンゴル系諸勢力を中央集権的に支配するという、強力な国家改造を押し進めていた。ガザンは、その政策の重要な柱のひとつとしてチンギス・カン家とモンゴル国家の歴史編纂を企図し、祖父アバカ以来侍医として仕え当時宰相(ワズィール)に抜擢されたラシードゥッディーンにその編纂長官職を任命した。編纂事業については、ガザン自身の口述の他に『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』と称されたモンゴル王家秘蔵の歴史書の閲覧を許可され、イルハン朝領内を中心にモンゴル諸部族集団で保持されていた伝承・旧辞・金言・系譜などに加え、中国やインド、フランクなどの様々な地域の知識人たちを動員して編纂が進められた。1304年にガザンが没したため彼は完成を見る事は無かったが、1307年にモンゴル帝国史の部分は完成し、『ガザンの祝福されたる歴史(Tārīkh-i Mubārak-i Ghāzānī)』と名付けられ、ガザンの弟でその後継者となったオルジェイトゥに献呈された。ガザンの政策を受継いだオルジェイトゥは、引き続きモンゴル帝国と関わった世界各地の歴史を網羅するようこれらの種族の歴史も追加編纂するように命じ、1314年に完成して『集史(Jāmi` al-Tawārīkh)』と名付けられた。『集史』の紀年法は、それまでのアラビア語・ペルシア語の書物と一線を画す表記法を採用している。主にモンゴル王族についての事蹟において書かれているのだが、まず、ウイグル暦と思しきテュルク語ないしモンゴル語による十二支年を置き、それのペルシア語による訳を附し、さらに季節とその月々の初・中・晩を述べてヒジュラ暦による年月日、時には曜日が附される。これはモンゴル宮廷では天山ウイグル王国などの書記法を採用して十二支年が使用されていたことが反映された物である。『元朝秘史』や現在発掘されているウイグル王国起源の経済文書なども基本的に十二支年だけで記されているが、ヒジュラ暦や季月などを並記する事で絶対年代の年月日を特定できるよう配慮されている。上述したように『集史』は二段階の編纂を経ているが、第1次編纂の折に完成したのが『ガザンの祝福されたる歴史(Tārīkh-i Mubārak-i Ghāzānī)』であり、それが改編されて『集史』第一巻「モンゴル史」となる。『祝福されたるガザンの歴史』が編纂された理由モンゴル帝国に征服あるいは帰順してモンゴル帝国を構成するテュルク系・モンゴル系の諸部族の来歴とその首長(アミール、ノヤン)たちの情報を述べた部族誌で、各部族はチンギス・カン家が属すキヤト氏族など、モンゴル部族連合を中心に族祖伝承や係累に基づいて4種類に分類している。チンギス・カン家の歴史で、チンギス・カンの祖先とその子孫について各々の本紀(Dāstān)が設けられている。また本紀は基本的に以下のような三部構成になっている。本紀のそれぞれの第2節・第3節には各々段(hikāyat)が設けられ、治世中などに起きた出来事について語られる。また、主要な段にはマー・ワラー・アンナフル、イラン地域、ミスルなど同じ時期の各地の支配者たちの動向についての情報が別項を設けて書かれている。第二巻(Mujallad-i Duwum)は世界史であり、第2次編纂にあたる。第三巻は地理志であったとされるが、これは伝存していない。『集史』は、完成後にモンゴル帝国各地の諸王家へ贈与されたことが記録されており、アラビア語版も同時に作られ、マムルーク朝でもそれらが読まれた。ラシードゥッディーンはオルジェイトゥ治世中に『ラシード著作全集』を著し、自らのワクフによる施設で毎年写本を一部ずつ完成させるよう指示をしていた。この中には『集史』とそのアラビア語版も含まれており、両種類の写本群が現存している。このため後のティムール朝時代にもシャー・ルフによる修史事業でも写本が再編集され、またオスマン朝やサファヴィー朝、ムガル朝でも読まれ各種の写本が作成され続けた。近代の歴史学でも、1700年代初頭から東洋学の基本文献のひとつとして位置付けられ、19世紀から研究がされており、19世紀のうちにすでに各国語訳が現れている。清人の洪鈞はロシア語訳『集史』を参照して『元史』との考証を行い、『元史訳文証補』を書いた。柯劭忞もこれを参照している。大元朝についてもクビライ・カアン紀やテムル・カアン紀の記述(一部、各国史の「中国史」も)には『元史』にない情報が見られ、現在、大元朝研究の有力な資料のひとつとして使用されている。しかし、『集史』の写本は上述のように1307年献呈『ガザンの祝福されたる歴史』、1307年献呈『集史』、1314年献呈『集史』というように3段階に増訂されており、それぞれに写本が流布している。さらにティムール朝修訂本や、オスマン朝アラビア語版も別系統の写本群をなしている。『集史』の研究にあたっては、これら諸テクストを校訂することが必須となるが、多系統の写本から原テクストを復元することは容易ではなく、それ以前に下項に示すとおり写本はユーラシア大陸全土に砂をばらまいたように分散して保存されているため、閲覧対照作業自体が困難を極める。また、ペルシア語版のみならず、アラビア語版やウズベク語版の対照も必要となる。さらに、テュルク諸語をはじめとするユーラシア各地の言語の固有名詞・語彙が多数使用されているため、これらの考証も必要となる。このため『世界征服者の歴史』とならんで13世紀以降の中央ユーラシア史の最重要史料でありながら、いまだにまともな校訂すらなされていない。
出典:wikipedia
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