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桑田真澄

桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 - )は、元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家、野球指導者。大阪府八尾市出身。プロゴルファーの桑田泉は実弟。PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで一世を風靡し、プロ入り後は1990年代の読売ジャイアンツ(巨人)を、斎藤雅樹、槙原寛己とともに先発3本柱の一人として支えた。2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士(スポーツ科学)を取得。指導者講習会を主催する特定非営利活動法人「アミーチ・デル・クオーレ」の理事長、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長、東京大学運動会硬式野球部の特別コーチや、日本野球機構(NPB)「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」の特別アドバイザーも務める。小学2年生より町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得。小学3年生よりボーイズリーグの八尾フレンドに所属し、父親である泰次により創意工夫された練習や特訓なども行っていた。小学5年生の終わりより主戦級投手として活躍。1980年4月、八尾市立大正中学校に入学し、野球部に所属。準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。入学直後に外野手兼一塁手としてレギュラーポジションを獲得。中1秋から主戦級投手として活躍。中2時(1981年)には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した守口市立八雲中学校(エースは後にPLで1年先輩になる清水哲)に0-1で惜敗。中3時(1982年)には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇。大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが、のち上宮高校を経て、南海→広島→巨人でプロ野球選手として活躍した西山秀二である。桑田、西山率いるこの年の大正中は投打とも群を抜く強さだったと言われ、また大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、桑田を物語る逸話が掲載されている。準硬式の関係者の間では「大正中学に桑田あり」とその名を轟かせていた。西山は「140km/hくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。すんごいコントロールしとったよ。ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった。プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田はこんな所に来ぃへんかったもん。中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ。誰も打てんかった。高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった。ずーっと野球やってきて、総合的に桑田が一番凄いと思う。オレの中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田」と語っている。進路方針等で学校側と問題に発展したため、中3の三学期に八尾市立成法中学校に転校し、卒業。1983年4月、PL学園高等学校に入学。高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。同期では他にも松山秀明、今久留主成幸、内匠政博がプロ入りした。PL入学直後は桑田自身の言によると、「4番は清原、エースは田口権一(元・本田技研野球部)」という既定路線で、桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった。中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かあったが、いずれも痛打を浴び、監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする。失意の中、ある日、母親が練習を見に来た際に「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明ける。甘い言葉を期待していた桑田の意に反し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい」というものだった。「もう辞めさせて下さい」といつ言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続いた。他方、清原の著書『男道』には「桑田は監督から特別メニューを受けており、将来性を見込まれていた」という一文もある。1981年、1982年と春のセンバツを連覇したPLも、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった。この年のPLは投手陣が安定せず、野球部監督の中村順司は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する。この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き、「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私に任せてくれ。夏までに立派なピッチャーにしてみせる」と発言し、桑田を投手に戻す。清水コーチのマンツーマンの指導が始まる。清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」と述懐している。夏の甲子園に向けた大阪府大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り。打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった。大阪府大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開でやっと勝つPLの有様を見かねた清水一夫が、4回戦の大阪球場での吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を進言。当初、中村は難色を示したが、清水の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まる。試合前は同一チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田を苛めた。この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封する。結果で上級生を黙らせた桑田(そして清原)の快進撃がそこから始まる。1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。1回戦の所沢商業高校戦で夏の甲子園デビュー。2回戦の中津工業高校戦を三安打完封、初本塁打。水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7-0と完封。二死無走者でバッターボックスに立った投手桑田は、「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター」と考え、レフトスタンドにホームランを放つ。それまで一度も甲子園で本塁打を打たれたことのない水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる(自身、この大会2本目の本塁打)。決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。決勝の試合後、「あと4回、甲子園に来て全部勝ちたい」と発言し、記者連中を驚かせる。1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は東邦高校の坂本佳一、早稲田実業高校の荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったこととなる。また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験する。帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は、中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を提案。中村がこれを了承し、以後、PLの黄金時代(1983年夏-1987年夏)を迎えることとなる。1984年の2年生での春のセンバツ、夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝。高校野球激戦区の大阪から甲子園に出場可能な5回全てに出場。そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原とともに打ち立てる。甲子園での通算勝利数は吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。なお、「夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しない」と言われていたが、桑田がプロで173勝の成績を残した為、このジンクスも桑田によって破られた形となった。桑田はプロに進んだ時の事を考え、ストレートとカーブのみで3年間通した。ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田に対して清原が「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、上述のことを言われ「とんでもないヤツと一緒に野球をやっとったんや」と驚愕したという。打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位の6本である(内訳⇒高1夏:2、高2春:2、高2夏:1、高3春:0、高3夏:1)。高校通算25本塁打。5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手は、2年生春の準決勝で延長11回で0-1で敗れた田口竜二(都城高⇒南海)、同決勝で1-0で投げ勝った山口重幸(岩倉高⇒阪神)、3年生春の準決勝で3-1で投げ勝った渡辺智男(伊野商⇒NTT四国⇒西武)といずれもプロ入りをしている。1985年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団。桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる(KKドラフト事件)。桑田自身は密約を否定した上で、「巨人に行かないと言ったことはない。春の選抜が終わった時点で、巨人が一位指名してくれたらプロに行こうと決めた。当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いる」と弁明している。また、テレビ番組において、ドラフト前には4球団が1位指名でいくと伝えていたことを、桑田本人が明かしている。ドラフト当日のインタビューで巨人監督の王貞治は「チームの状況を考えれば補強ポイントは投手。投手と言えば桑田」「時期は言えないが、ずっと前から桑田一本で行こうと決めていた」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした。桑田で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングができること」、桑田で印象に残るプレーとしては、「1985年春の選抜の天理高校戦でトリプルプレーを決めたこと」を挙げている。プロ入り前後は投球だけでなく打撃、守備も優れていた桑田について野手転向を薦める者も多かったが、投手として5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。2年目の7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らの3点本塁打とタイムリーヒットでチームの全4得点をもたらした上で、プロ初完封勝利を挙げる。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。同年の日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発したが、いずれの試合も自らのエラーで自滅し、序盤で降板した。翌には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手に抜擢された。からは監督の藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。2年連続で開幕投手に指名された1989年は開幕から負けなしの5連勝スタート。自己最多の17勝をマークした。近鉄バファローズとの日本シリーズは、第2戦こそ敗戦投手になったが、第6戦に勝利投手になってチームの日本一に貢献した。2月、中牧昭二によってスポーツ用品メーカーとの関係を暴露する内容の書籍『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』出版されたところ、その中で、桑田が親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたらしい旨の記述や会員の勧誘に成功の報酬として現金をもらう記述があり、さらに同社長がかつて常習賭博罪で有罪判決を受けたことも明らかになったため、桑田が野球賭博に関与しているのではないかとの憶測を招き、その件も週刊誌やスポーツ紙等で騒がれることとなった。当初、桑田は登板日漏洩の事実と金品の授受の事実をいずれも否定したが、その後それが虚偽であったことが判明した。そこで、巨人は、3月30日、桑田に対し、金品の授受等が統一契約書17条(模範行為)に反するとして、シーズン開始後登板禁止1か月、罰金1000万円の処分を行った。この件は、国会でも採り上げられるなど社会問題化した。中牧との間では、野球賭博には関与していないことが確認されている。もっとも、謹慎後は2試合連続完封でシーズン復帰するなど、1か月の遅れをものともせず勝利数・防御率ともに斎藤に続いてリーグ2位と活躍した。日本シリーズは第3戦に先発し、初めて完投(8イニング)したが、7失点と打ち込まれ敗戦投手になった。は、斎藤、槙原が不調に陥る中で奮闘し、あらゆる項目でチームトップとなる成績を残す。しかし、は6年連続二桁勝利を記録したものの不調に陥り、6月から7月のチーム10連勝、4連勝、7連勝をいずれも桑田が止めたことから「連勝ストッパー」と揶揄されるようになる。長嶋茂雄が2度目の巨人監督へ就任したも前年に続いて打線の援護に恵まれないこともあって精彩を欠き、野手転向論が再度沸くようになる。この時期の不調に関して、当時セ・リーグの審判だった田中俊幸の著書「審判だからわかること」によると「低めの球に伸びがなく、それまでストライクとコールしていた球が外れるようになっていた」という。シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出される。8月13日の阪神タイガース戦(東京ドーム)では、セ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)で完封。また、10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となる。1994年の桑田について、投手コーチであった堀内恒夫は、「投手としての絶頂期だった」と振り返っている。(特記事項以外、10.8決戦における出典は『試練が人を磨く』(1995年5月 ISBN 978-4594017125)pp.85-97)1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際は、8回二死までノーヒットノーランに抑え、投手コーチの堀内の指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板。7日夜、宿舎で監督の長嶋茂雄から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われて、意欲満々で試合当日に臨んだ。当日8日は、試合前の練習時に、桑田が巨人投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まらなかった。試合開始し、初回からブルペンに入っていたが、「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった」と述べている状況であった。8回先頭打者のPLの後輩で同室だった立浪和義が一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて負傷退場となりながら内野安打としたシーンに感動したことを認めている。9回裏二死小森哲也を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブを挙げた。『ベースボールマガジン』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」(pp.72-73)と記述している。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出てはいなかった。1994年の日本シリーズでは、第1戦で序盤に打ち崩された後は、第3戦で終盤の救援登板でセーブをあげ、第5戦で先発登板して完投勝利をあげ、1勝1敗1セーブであった。桑田は、本当に巨人のエースとして認められる一方、1994年終盤の酷使から、下記の肘の手術に入っていくという分岐点として、10.8決戦を振り返っている。6月15日、阪神タイガース戦の3回表において、湯舟敏郎の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘を強打、その後も6回途中に降板するまで遜色無い投球を続けていたが、後の検査で側副靭帯断裂の重傷を負っていたことが判明。治療のため、自身の左手首から健全な靭帯を移植する手術(いわゆるトミー・ジョン手術)を受けることを選択し渡米。1995年シーズン残りとを棒に振り、4月6日の試合で661日ぶりに復帰。カムバックの際、マウンドにひざまずきながらプレートに右肘をつけたシーンは有名となり、これ以後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られるようになった(木田優夫・岩本勉・黒木知宏等)。この試合ではバント飛球に対し迷わずダイブする桑田の姿に周囲が凍りつく一幕もあった。復帰した同年は10勝を挙げた。には前年覇者ヤクルトとの開幕戦で9年ぶりに開幕投手を務め、9回二死から金石昭人の救援を仰ぎ完投は逃したが、勝ち星を挙げている。この年は最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、1勝差で川崎憲次郎に及ばなかった。前年は100球限定での登板だったが、この年は球数制限もなくなり、復帰後初完封を含む7完投をマークした。は8勝9敗に加え、上記1994年の10.8決戦以来となる公式戦救援登板などもあり、5セーブを挙げた。は5勝8敗の成績で終わる。同年は前年よりも中継ぎ登板が増えた。チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たし、自身としては1994年以来の日本シリーズとなったが出番は大差を付けられた試合の敗戦処理的な登板に終わった。も回復の兆しが見えず、4勝5敗の成績で終わった。16勝を挙げた1998年から2001年までの4年間はいずれも防御率4点台だった。そして共に巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一などのベテラン勢が引退した。長嶋も監督を勇退した。長嶋政権の晩年は成績を残せなかったが、この時期の桑田のことを落合博満は、後年、自著の中で大きく評価をしている。からは長嶋に代わって原辰徳が巨人の監督に就任した。桑田は前年オフに引退を決意していたが、原から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。この年は古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れたのが功を奏し4年ぶりの二桁勝利を果たす。12勝6敗、防御率2.22の成績で15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献した。規定投球回に到達しての防御率2点台は1994年以来8年ぶりだった。西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦に先発。初回に2死満塁のピンチを招くも自身の牽制の間に本塁に突入した3塁ランナーの小関竜也がアウトになり、ピンチを脱する。桑田は大量援護にも恵まれ7回1失点と好投し、日本シリーズではの第5戦以来の勝利投手となる。日本シリーズにおいての先発登板も同シリーズ以来だった。チームはストレートの4連勝で日本一に輝いた。なお桑田にとってはこの年が最後のリーグ優勝と日本一となった。しかしには足首を捻挫。前年のような投球ができず5勝3敗、防御率5.93と前年より不安定な成績となった。また、この年の負傷が癖になってしまい、再び精彩を欠くようになる。は3勝5敗、防御率6.47の成績に終わり、前年とほぼ変わらない登板数でシーズンを終える。この年から就任した堀内恒夫監督からは、再び低調になった桑田に対して「(現役時代は投手だった)俺は晩節を汚さなかった」と引退勧告ともいえる発言を受けている。は勝てない試合が続いた。前述の通り、堀内は桑田に引退勧告ともといえる発言をしていたが、優勝が絶望的となると桑田に後半戦の先発ローテーション投手を任せるなど、桑田への気遣いをしており、必ずしも戦力として見ていなかったわけではなかった。そうした起用法がなされた2005年は結局、12試合に先発し防御率7.14、0勝7敗に終るが、監督交替や若手の手本たり得る存在であることなどを理由とし、2006年も現役続行が決まった。4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げる。しかし、この試合で走塁中に右足首を再び捻挫してしまい、同27日の広島市民球場での広島戦では3回途中6失点KOされ敗戦投手となった。この試合が1軍での最後の登板となった。その2日後に登録抹消された。しばらく二軍で調整を続け、8月21日のイースタンリーグのヤクルト戦。原監督が一軍昇格の見極めの為に観戦する中で先発するが、足を故障して2回途中に降板。昇格のチャンスを逃した。その後、シーズン終盤になっても首脳陣から一切声はかからなかったことから、自分を戦力としては見ていないと判断。吉村禎章二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、読売ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願し、「球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに巨人での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった為」9月23日、球団のホームページにある自身のページ『LIFE IS ART』で退団と2軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載する。処遇が冷たいなどと巨人(というより「表看板」である原監督)バッシングが展開されたり、スポーツ誌にオリックスに移籍していた盟友の清原和博のコメントが掲載されたり、引退試合を計画していた球団フロントは独断で動いた桑田に激怒するといったチグハグな状況となった。現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明、結局『引退試合』は『お別れ会』としてファン感謝デーで行われることとなった。巨人のユニフォームでの最後の日となったのが11月23日、東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」、イベントの最後に「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶し、21年間在籍した巨人に別れを告げた。2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。日本人のパイレーツとの契約は、マイナーを含め第1号となった。の春季キャンプに招待選手として参加、キャンプ終盤まで途中のマイナー合流を命じられることはなく、開幕メジャー入りを目指していた。3月26日、トロント・ブルージェイズとのオープン戦で登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審と激突し、右足首の靭帯断裂という怪我に見舞われた。審判3人制だったために、球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田と交錯することとなった。当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされた。この頃、桑田は、復帰の時期にはこだわっていないと話していた。パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リストに入れリハビリを後押した。フロリダでリハビリを続け、5月19日にフリー打撃、5月24日に練習試合での登板を経て、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流した。6月2日に3Aでの公式戦初登板を果たした。復帰してからのマイナーにおける投球はいずれも順調な回復ぶりを示すものとなり、ピッツバーグの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。39歳70日でのメジャーデビューは日本人選手では史上1位(当時、現在は高橋建に次いで2位)、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ記録となった。昇格当初は敗戦処理などでの登板が続いたが、監督のジム・トレーシーから「大事な場面でストライクが取れる」と評価を受け、中継ぎとして重要な場面での登板を任される機会が出てきた。しかしながら、日本時代にも指摘されていた球威の衰えに加え、桑田最大の武器であるコントロールも精彩を欠き打ち込まれる場面が増え、19試合に登板し0勝1敗、防御率9.43と振るわず、1勝も上げないまま8月14日(日本時間では15日)にピッツバーグより戦力外通告を受けた。退団時は「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」と清々しい表情で語るなど引退を示唆していた。1月8日、再びパイレーツとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待選手として参加することを自身のブログで公表した。オープン戦では好投を見せたが、若手を起用する球団構想から外れ、メジャー昇格が絶望的となったことからことから、3月26日、引退する意思を明らかにし帰国した。6月にはグリーンスタジアム神戸で巨人時代の同僚の吉原孝介を加え清原和博の打撃投手を務め、9月23日に茨城ゴールデンゴールズ主催の引退試合を行った。引退後は野球解説者・評論家(スポーツ報知専属評論家。TBS・J-SPO大リーグゲストコメンテイターほか)として活動。2009年1月28日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格した。大学院では平田竹男教授の指導を受け、同期生には政治家の中山泰秀や競艇選手の江口晃生などがいる。2010年3月25日、首席で修了。修士論文の題目は「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」。本作で最優秀論文賞を受賞。「個別の入学資格審査」を経て進学したため、入学試験に合格した際、話題となり、早稲田大学に問い合わせが殺到した。2010年1月17日、父・桑田泰次が火災で死亡した。2010年7月20日の朝日新聞で高校野球の球児達への助言を「野球を好きになる7つの道」と題し自らの野球論を披露した。2011年9月14日に東日本大震災復興の為、福島県営あづま球場にて桑田中心に巨人時代の同僚の仁志敏久やPL学園の後輩の立浪和義らOBを集結させ地元の社会人クラブ選抜チームと対戦した。この時桑田はピッチャーとして出場したが現役を引退してから4年経っているのにもかかわらず130km/h台後半のストレートを披露。球場に訪れたファンを驚かせた。1月下旬からは、東京大学の硬式野球部で特別コーチを務めている。就任後の初練習では、部員たちを前に、自ら約40球にわたって投球を披露。後日、『クローズアップ現代』や『SPORTS X』で指導の模様が特集で紹介された。日本野球機構で6月にいわゆる「統一球問題」が発覚した際には、同機構が設立した「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」に、「特別アドバイザー」という肩書で野球関係者から唯一参加している。3月には、硬式野球部の特別コーチを務める東京大学で、大学院総合文化研究科の大学院研究生に合格した。同年4月からは、コーチ職や従来の活動を続けながら、同研究科で2年間を目途に投手・野手の動作を研究する予定。2014年の10月からグランドジャンププレミアムで短期連載された「ダウト」で監修をしている。また、長男がドラフトで志望届を出して指名はされなかったが、独立リーグからは指名され入団したことが判明した。カーブを軸とした「コンビネーションピッチャー」の一人。174cmと小柄な体だったが、オーバースローからダイナミックに投げる140km/h台の速球、カーブ、シュート、フォーク(SFFで桑田自身は「サンダーボール」と命名して使っていた)、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)、晩年にはチェンジアップを覚え常に研究を怠らなかった。打者や調子によって織り混ぜ、173勝を積み上げた。変化球に関しては高校時代はカーブしか投げておらずプロに入ってからもシュートを覚え、SFFを覚えと徐々に球種を増やしていった。これに関してはいっぺんに覚えて投げるより徐々に増やす事によって投手の寿命を伸ばす考えからである。カーブには主に全盛期時に投げていたカーブと、の最優秀防御率賞奪取に貢献し、メジャー時代(後期)にも投げていた緩めのカーブと二種類あり、前者はキレを中心としたドロップ系の比較的速いカーブ、後者は山なりの軌道を描くスローカーブ(ドロップカーブ)である。後者のカーブは「レインボール」「レインボーカーブ」「すしボール」と様々な名称で呼ばれていた。高校時代はエースとして活躍する一方、打者としても試合によっては清原和博以上の打率やホームランを出したこともあり、プロに入ってからも打撃には定評があった。ゴールデングラブ賞を通算8度獲得するなど守備のうまさにも定評があった(投手として8回の受賞は西本聖と並び史上最多タイ)。投手としては恵まれない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い。関西地方(大阪)の出身でありながら、メディア(特に全国中継でのTVインタビュー、誌上)で関西弁を出す事は滅多になく、ほとんどを所謂“標準語”で通している。怒る際は関西弁が出るとのことで、本人曰く「関西弁が出てる時は怒ってるんでしょうね」とのこと。ただし、話し相手が関西の人物だと親しみを込めて関西弁に切り替える時はある。練習量が非常に豊富と言われることがあるが、実際には「ピッチャーが練習で体を壊すのは言語道断」という考えから、比較的ソフトな練習をしていたとのことであり、指導者たちが「桑田はかなりの練習をしているんだぞ!」という言葉をよく使うことに辟易していたとのこと。現在の日本の野球の指導のあり方に不満や問題点を挙げており、スポーツニュース(特に準レギュラーの『S☆1』)や野球中継の解説などでよく持論を披露する。技術指導に関するもの以外でも、質ではなく単に量のみ求める長時間練習や、グラウンドで飲酒喫煙をするアマチュア野球指導者の姿勢、年長者や指導者に絶対服従、指導中や負けた場合の鉄拳制裁(体罰)は当然、といった日本野球界特有の体育会系思想を批判している。2013年1月12日付けの朝日新聞社会面では、体罰について「私は、体罰は必要ないと考えています。“絶対に仕返しをされない”という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツとして最も恥ずかしき卑怯な行為です」と答え、「指導者が怠けている証拠」であるとした。非喫煙者かつ嫌煙家。自分も含めた非喫煙者が受動喫煙させられることに立腹し、スタッフに働きかけ、移動用バスは禁煙車と喫煙車に分乗、また「ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙」と分煙化を達成。春先のキャンプでは禁煙ルームを設置できないので全面禁煙化を達成させた。2016年2月2日、清原和博が自宅で覚せい剤所持取締法違反の疑いで逮捕された事を受け、桑田は「報道で知って、ただただ驚いている。ウソであってほしいし、夢であってほしいというのが今の正直な気持ち。もし報道通りなら、人として野球人として一緒に戦ってきた仲間として、非常に残念でならない」とショックを隠しきれなかった。なお桑田は、清原が逮捕される約3年程前から全く連絡を取らなくなっており、それまで「スポーツマンである以上、暴力や薬からは一番遠い存在でいるべき」などと清原に忠告し続けていたものの、ある日「もう一切関わらないでくれ」と清原の方から突き放されたことを機に、二人して「決別宣言」をしたと語っている。

出典:wikipedia

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