ゲイロード・ジャクソン・ペリー(Gaylord Jackson Perry, 1938年9月15日 - )は、MLBの元選手。ポジションは投手。アメリカ合衆国ノースカロライナ州ウィリアムストン出身。3歳上の実兄ジム・ペリーも元投手。6月3日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約。4月14日のシンシナティ・レッズ戦でメジャーデビュー。5月31日のニューヨーク・メッツ戦で延長13回から登板し、10イニングを無失点に抑えて勝利投手となり、6月30日の同カードではメジャー初完封を達成。8月から先発に定着し、12勝11敗・防御率2.75を記録した。は後半戦からリリーフでの登板が多くなり、8勝に留まる。は開幕から5連勝、1敗の後に7連勝を記録。6月26日のレッズ戦では5回までパーフェクトに抑えて2安打完封勝利を挙げるなど前半戦で12勝を記録し、オールスターゲームに初選出される。後半戦は7月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で7回まで無安打に抑え、キャリアハイの15奪三振で1失点完投勝利を挙げるなど8連勝を記録したがその後6連敗。それでも21勝8敗・防御率2.99・201奪三振の好成績だった。は勝利に恵まれず前半戦は5勝10敗だったが、9月1日のレッズ戦で16イニングを無失点に抑えるなど後半戦は10勝7敗・防御率1.71と復調し、15勝17敗ながら防御率2.61・230奪三振を記録した。は8月26日のシカゴ・カブス戦で7回1死までパーフェクトに抑え、1安打無四死球の「準完全試合」で完封勝利。9月17日のセントルイス・カージナルス戦ではボブ・ギブソンとの投手戦を制してノーヒットノーランを達成するなど16勝15敗・防御率2.45の成績だった。は19勝14敗・防御率2.49・233奪三振、リーグ最多の325.1イニングを記録した。は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、9月に4連続完封勝利を挙げるなどいずれもリーグ最多の23勝・41先発・5完封・328.2イニング・292被安打を記録。ギブソンと並んで最多勝利のタイトルを獲得し、サイ・ヤング賞の投票ではギブソンに次ぐ2位に入った。は16勝12敗・防御率2.76の成績でチームの地区優勝に貢献。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦で3失点完投勝利を挙げるが、第4戦で6回途中7失点と打ち込まれて敗戦投手となり、チームは1勝3敗で敗退した。これが結果的に自身最初で最後のポストシーズンとなった。11月29日にサム・マクダウェルとの交換トレードで、1選手と共にクリーブランド・インディアンスに移籍。は移籍1年目ながら開幕投手を務める。前半戦で16勝8敗・防御率1.73を記録し、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。24勝16敗・防御率1.92・234奪三振、リーグトップの29完投を記録してウィルバー・ウッドと並んで最多勝利のタイトルを獲得し、自身初のサイ・ヤング賞を受賞。兄ジムも1970年に受賞しており、兄弟の受賞はMLB史上初となった。MVPの投票では6位に入った。7月3日のデトロイト・タイガース戦では兄と投げ合い、7回途中5失点で敗戦投手となった。19勝19敗・防御率3.38、いずれもキャリアワーストの115四球・143失点・315被安打・34被本塁打・17暴投と前年から成績を落としたが、リーグトップの29完投、いずれもキャリアハイの238奪三振・344.0イニング・7完封を記録した。は兄とチームメイトになる。開幕直後から15連勝を記録するなど前半戦で15勝3敗・防御率1.47の好成績で、オールスターゲームでは先発投手を務めた。後半戦で6勝10敗と調子を落としたが、21勝13敗・防御率2.51・216奪三振を記録し、サイ・ヤング賞の投票で4位に入った。兄は17勝を挙げ、2人でチーム勝利数(77勝)の半分に当たる38勝を挙げた。6月13日に3選手プラス10万ドルとの交換トレードでテキサス・レンジャーズに移籍。移籍後は4連敗を喫したが、後半戦で11勝3敗・防御率1.86と調子を上げ、シーズン通算で18勝17敗・防御率3.24・233奪三振を記録した。5月18日のタイガース戦で完投勝利を挙げ、サイ・ヤング、ジム・バニングに次ぐ史上3人目の両リーグ100勝を達成した。1月25日に1選手プラス12万5千ドルとの交換トレードでサンディエゴ・パドレスに移籍。同年は9月に6勝を記録し、10月1日のロサンゼルス・ドジャース戦ではウォルター・ジョンソン、ギブソンに次ぐ史上3人目の通算3000奪三振を達成するなど、後半戦で12勝2敗・防御率2.36を記録。21勝6敗・防御率2.73の成績で3度目の最多勝利を獲得し、2度目のサイ・ヤング賞を受賞。両リーグでの受賞は史上初だったは5年ぶりにオールスターゲームに選出されるが、8月に5連敗を喫するなど12勝に留まり、連続15勝以上は13年でストップした。2月15日に1選手との交換トレードで、他2選手と共にレンジャーズに復帰。8月14日に後日発表の1選手を含む2選手との交換トレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。チームは地区優勝を果たしたが、ポストシーズンでの登板はなかった。オフにフリーエージェントとなる。1月12日にアトランタ・ブレーブスに移籍。同年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されたこともあって8勝に留まり、10月5日に解雇される。3月5日に新興のシアトル・マリナーズと契約。5月6日のヤンキース戦で史上15人目の通算300勝を達成。同年は10勝を挙げる。は3勝10敗と不振で6月27日に解雇。7月6日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約するが、シーズン通算で7勝14敗に終わり、同年限りで現役引退。兄は通算215勝を記録しており、兄弟の勝利数合計529はフィル&ジョーのニークロ兄弟(539勝)に次ぐ記録である。に野球殿堂入り。殿堂プレートでは最も長く在籍したジャイアンツの帽子を被っている。7月23日にジャイアンツ時代の背番号『36』が球団の永久欠番に指定された.。メジャー史を代表するスピットボーラーであり、ボールにワセリンやポマードをつけ、時には紙ヤスリで細工して投げていたという。ジャイアンツで2年間チームメイトだった村上雅則も「ペリーはスピットボールを投げていた」と証言している。しかし誰も証拠を掴めなかったため、引退前年の1982年8月23日に通常考えられない変化球を投げてついに退場処分になるまで一度も退場処分になったことはなかった。また、別のある試合では「怪しい」と感じた審判がペリーを調べたところ、手の中からただの紙がでてきて、紙には「こんなところには隠さないよ。まだまだ甘いね。」と書いてあったという。1970年春にジャイアンツが来日し、日本各地でオープン戦を行ったが、日本でもスピットボールやグリースボール、エメリーボールを投げた跡がボールから見つかった。審判はまるで気がつかず、「さすがは達人」と唸ってしまい、そのボールを見た伊東一雄は感激したという。引退後には、新聞記者ボブ・スーダイクとの共著で自伝『私とスピットボール』(原題:Me and the Spitter;: An Autobiographical Confession)を出版。「通算300勝を達成した時にはボールに歯磨き粉をつけて投げていた」等と現役時代のスピッターぶりを告白している。また、自身が反則投球に使用したワセリンを販売する会社を経営している。バッティングは苦手で、メジャー2年目の1963年には「俺がホームランを打つ前に人類は月へ行くだろう」と語っていた。事実、1969年7月20日午後4時17分にアポロ11号が月面に着陸。その直後に初ホームランを打っている(通算では6本打った)。
出典:wikipedia
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