大引 啓次(おおびき けいじ、1984年6月29日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(内野手)。大阪府大阪市住吉区出身。創建2000年の歴史を持つ神須牟地(かみすむち)神社の宮司の二男として生まれ、物心ついた頃から恒例行事や大晦日には必ず神社を手伝っていた。大阪市立長居小学校1年時に住吉連盟の大阪ゴールデンファイヤーで軟式野球を始め、投手兼遊撃手を務めた。中学時代は硬式野球の住吉大和川シニアに所属し、遊撃手として全国大会に出場。浪速高校では1年夏からベンチ入りし、1年秋から遊撃手のレギュラーの座を獲得。2年春の第73回選抜高等学校野球大会に出場し8強入りに貢献。3年夏の大阪大会では5本塁打を放った。高校通算15本塁打。法政大学(法学部政治学科)進学後は、1年の東京六大学野球春季リーグ開幕戦で九番・三塁手としてデビュー。以後不動のレギュラーとして活躍し、3年時の秋季リーグでは同校5年ぶりとなる優勝、4年時には主将となり春季リーグで2季連続優勝を達成した。大学では首位打者を2度、最多打点と最多盗塁を1度ずつ記録し、ベストナインには5度選出され、小早川毅彦が作ったチーム最多安打記録(114)を更新し、慶應義塾大学の高橋由伸を抜いてリーグ歴代単独4位となる通算121安打を記録した。リーグ戦の通算成績は、98試合出場、365打数121安打、打率.331、5本塁打、62打点。11月4日に明治神宮外苑創建80年記念で行われた東京ヤクルトスワローズと東京六大学選抜チームとの試合では3対2で六大学チームが敗れたものの、大引自身は先頭打者本塁打を含む3安打を記録した。11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議(大学・社会人ほか対象)にてオリックス・バファローズから3巡目指名を受け入団した。背番号は10。3月24日の開幕戦に八番・遊撃手として先発出場。オリックスで新人が開幕戦に先発出場したのは、指名打者で出場したの後藤光尊以来、遊撃手としてはの田口壮以来だった。プロ初打席で斉藤和巳から初安打を記録し出塁すると、直後に初盗塁も決めた。7月6日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で永井怜からプロ初本塁打。シーズン通して遊撃手のレギュラーの座をほぼ掴んでいたが終盤は調子を崩し、好調だった後藤に先発を譲ることも多かった。規定打席には2打席不足したが、最終的には出塁率.329を記録するなど新人野手としてはトップクラスの成績を残した。リーグワースト3位、遊撃手としては同2位の17失策を記録したがレンジファクターではリーグの遊撃手の中で1位だった。一方で打率.274に対し得点圏打率.212とチャンスで打てなかったことなどの課題も残した。シーズン後の秋季キャンプでは臨時コーチを務めたロサンゼルス・ドジャース・ストレングス・コンディショニングコーチのダグ・ジャローが俊敏性を試すために独自に考案した「球拾いテスト」でチームトップの好タイムを記録。「素晴らしい才能を持った選手がいた」と絶賛された。3月18日、阪神の選手などが多く所属するオフィスS.I.Cとマネジメント契約を締結。同年の開幕戦には八番・遊撃手として出場。開幕直後は打撃不振に苦しんだが、徐々に復調。5月7日の千葉ロッテマリーンズ戦では延長10回裏に荻野忠寛からプロ入り初のサヨナラ安打を放った。しかし、6月9日の阪神戦で久保田智之から右手人さし指に死球を受けて骨折し戦線離脱。8月27日の福岡ソフトバンクホークス戦で復帰し、以後は再び遊撃手のレギュラーとして出場。最終的には故障の影響もあって88試合の出場にとどまり打率.258に終わったが、得点圏打率.319を記録するなど成長の跡も見せた。は故障者続出でチームが不調に喘ぐ中、107試合に出場して打率.278と健闘し、遊撃手としてのレギュラーの座をほぼ手中にした。しかし9月1日のソフトバンク戦で甲藤啓介から左手首に死球を受けて骨折し、残りシーズンを棒に振ったため、またしても規定打席に到達できなかった。8月25日の日本ハム戦で9回裏二死に同点適時打、延長10回裏にはサヨナラ安打を放ったが、シーズン中の得点圏打率は.221に終わった事、自己ワーストの84三振を喫した事、また好調時は安打を量産する反面、一旦不調に陥るとなかなか安打が出ない事などの課題も残した。一方、守備の面では再びレンジファクター1位になった。は開幕戦に九番・遊撃手として出場し、3回裏に岩隈久志から同年のチーム初打点となる先制適時打を打ち、完封勝利を挙げた金子千尋と共に試合後にヒーローインタビューを受けた。その後は打率が低迷し5月3日に二軍降格。交流戦で戦線復帰を果たすが、7月2日に腰痛で再度登録抹消。8月15日に一軍復帰したが、結局はプロ入り後最少の85試合の出場で、打率.236と低調な成績に終わり(ただし得点圏打率は.302)、山崎浩司・金子圭輔との併用も多く、正遊撃手不在の一因となってしまった。9月4日のソフトバンク戦では、杉内俊哉の攻略の契機となる適時打や、その後の決勝適時打など3安打2打点と活躍したが、酷暑の影響による熱中症のため手足の痙攣を訴え、途中交代するという憂き目にも遭った。は二番・遊撃手として開幕戦に出場したが、打撃不振により開幕5戦目に先発落ちした。その後しばらくは控えに甘んじていたが、交流戦前に下位打線で先発復帰し、8月以降は二番打者に定着した。この年は自身初めて規定打席に到達し、チーム最多の42犠打(リーグ3位タイ)と52四球(リーグ7位)をマーク。打率は.244と振るわなかったが、得点圏打率は.292を記録した。レギュラーシーズン終了後には、岡田彰布監督から翌2012年シーズンの二番打者と副キャプテンに指名され、秋季キャンプに帯同した。オフには岸田護と共に選手会副会長に就任。も前年同様に二番・遊撃手として開幕戦に出場。開幕直後は高打率を残すも、緩やかに調子を落としていくが、坂口智隆や後藤の打撃不振もあって、5月5日の日本ハム戦ではプロ入り後初の一番打者、5月19日の対東京ヤクルトスワローズ戦では初の三番打者を務めた。8月に入ると更に調子を落とし、8月29日に腰痛のため登録抹消。シーズン終盤に一軍に復帰したが、結局は規定打席に14不足した。一方で、自己最多の6本塁打を放っており、本拠地である京セラドーム大阪では前年までの5年間で2本塁打しか放っていなかったが、この年だけで4本塁打を記録している。また、7月27日の日本ハム戦では自身初の右方向への本塁打を、7月8日のロッテ戦と10月1日の楽天戦では決勝本塁打を記録している。オフには引退した鈴木郁洋に代わって選手会長に就任したが、1月25日に八木智哉・糸井嘉男との交換トレードで、木佐貫洋・赤田将吾と共に日本ハムに移籍した。背番号は糸井の7を受け継いだ。なお日本ハムおよびその前身球団の背番号7を内野手登録の選手が使用するのは西園寺昭夫(1957年 - 1966年)以来で、47年ぶりである。移籍して臨んだは開幕から遊撃手のレギュラーに定着。5月20日の札幌ドームでの読売ジャイアンツ戦で杉内俊哉から移籍後初本塁打を放つ。前半は下位打線、後半は主に2番を任され、クリーンアップに入ることもあった。9月に右肘及び腰の慢性的な故障が悪化し登録を抹消されたが、自身2度目の規定打席到達を果たしチームトップの32犠打を記録。規定打席に到達しての100安打はプロ入り初となった。出塁率・盗塁はキャリアハイとなる成績をマークした。から、移籍2年目の選手としては異例の主将を務めた。シーズンでは自己最多の132試合に出場したが、前年と違って打撃不振に苦しんだ。同年オフ、出場機会を求めて国内FA宣言を行った。古巣のオリックス・バファローズや東京ヤクルトスワローズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団が興味を示し、それぞれと交渉を行ったが、11月25日に東京ヤクルトスワローズとの契約締結合意が公示された。は開幕からスタメンで起用されたが、5月4日の横浜DeNAベイスターズ戦後左脇腹痛のため戦線離脱。6月28日の巨人戦で一軍復帰した。復帰後は一割近辺の低調な打率を大幅に上昇させ、チャンスで殊勲打を放つ場面が目立った。最終成績はキャリア最低の出塁率と守備率になり、攻守とも期待を裏切る結果になった。9月10日のDeNA戦で2回に石田健大からソロ本塁打を放ち史上30人目の全球団から本塁打を達成。通算32本塁打での達成は糸井や相川亮二の58本塁打を大きく更新する史上最少通算本塁打数での達成記録である。愛称は「ビッキー」。大学で主将を務めている時には「法政史上最高の主将」、「学生野球の鑑」と他大学からも称賛された。プロ入り時の契約金8,000万円(推定)をほぼ全額実家の神社へ納め。ファンサービスに関しても積極的である。また、人権啓発運動にも2007年より毎年参加している。オリックス時代に1年後輩だった小瀬浩之を弟分として可愛がっていた。2010年の春季キャンプ中に小瀬が急死した直後には自身のブログで、「何でもっと力になってやれなかったのか。ただ自分の無力さを悔やむ。本当にすまなかった」と、身近にいながら仲間を救えなかったことの自責の念にかられていた。 小瀬の死後、オフにはシーズン終了の報告のために小瀬の実家へ訪れている。この時に遺品を譲り受けており、2015年のセ・リーグ優勝時のビールかけでは小瀬のユニフォームを着用していた。2012年シーズン終了後に、結婚を発表した。打席に向かう際の登場曲はのあのわの「もぐらは鳥になる」を選択している。(ただし、2013年からRADWIMPSの君と羊と青に変更になった。)また、その縁で、2011年にはのあのわがスタジアムに来場して同曲を披露している。大場翔太からオリックス時代も含めて2009、2011、2013年の3回、頭及び上半身へ死球を受けている。2009年と2011年の際は両方ともバントの構えをしていた大引の顔面に大場の投球が直撃したものであり(2回とも大場は危険球退場となっている)、2013年は大引の左ひじに直球が直撃している。2013年に死球を受けた際は大引が激高し、止めようとした山崎勝己とにらみ合いになった。
出典:wikipedia
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