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小樽高等商業学校

小樽高等商業学校(おたるこうとうしょうぎょうがっこう)は、1910年(明治43年)3月に設立された旧制専門学校であり、略称は「小樽高商」(-こうしょう)である。なお、この項目では改称後の「小樽経済専門学校」(-けいざいせんもんがっこう)についても記述する。小樽高等商業学校が設立される以前、官立高商は東京・神戸・山口・長崎の4校が存在していたが、すべて東京以西であった。第5高商の誘致に際し、小樽と函館・仙台が誘致を争うこととなったが、当時国内におけるニシン漁の中心であり、樺太やウラジオストクとの交易で繁栄していた小樽が、建設費370.000円のうち200,000円を拠出することを決定して高商の誘致を成功させ、北海道はもちろん東日本では初の官立高商となった。1910年(明治43年)3月に設立(官制公布)された小樽高商は、翌1911年4月に修業年限3年の本科を設置して開校し、初代校長には東京高師教授・東京音楽学校校長などを歴任した渡邊龍聖が就任した。北海道では北海道帝国大学に次ぎ設置された高等教育機関であるが、北大が農学部など理系学部のみで構成されていたことから、道内においては文科系の官立高等教育機関として唯一のものであった。設立当初の小樽高商は教育方針として先行の神戸高商と同様、実業教育に重点を置き、旧制中学校のみならず(甲種)商業学校(現在の高等学校商業科に相当)出身者にも門戸を広げ、商業実践・企業実践・商品実験に加え商業英語を重視した。1919年に竣工した企業実践科の「実習工場」は、授業の一環として石鹸の製造から販売までを実習として行うものであり、その商品は「高商石鹸」の名で知られた。さらに渡邊校長の方針により外国人教師を多数任用し、英語以外にも独・仏・露・西・中などの語学教育を充実させたことから、「北の外国語学校」と称された。小樽高商卒業生として作家・伊藤整が出たのは外国語教育の充実、プロレタリア文学の小林多喜二が生まれたのは1925年(大正14年)の軍事教練反対運動に代表される左派の学生運動の高まりと関わりを持っている。また、高商のなかでは北方地域への関心が高く、1913年7月には3年生24名が沿海州ウラジオストクへの修学旅行を行っている。2代目校長・伴房次郎時代にはゼミナール制(1931年)・指導教官制(1932年)などの教育の充実と並行して研究活動も盛んになり、1926年7月の紀要誌『商学討究』創刊を基礎に、1933年には研究機関として北海道経済研究所を設置した。課外活動では北大予科とのスポーツ定期戦が開催されたほか、寒冷地に位置することからウィンタースポーツが盛んであり、1931年には図書館裏にシャンツェ(スキージャンプの跳躍台)が竣工し、1933年1月には第1回全国高専スキー大会で優勝した。その一方、東京高商の大学昇格に見られる大正期以降の高等教育拡充の動きのなかで、1918年には小樽高商でも大学昇格運動が起こっているが、渡邉校長の消極的態度もあって挫折している。小樽高商はつづく第3代校長・苫米地英俊のもとで体制を一新した。彼は学校運営に辣腕をふるい、創立25周年記念事業として研究資金200,000円の募集を進め、卒業生を対象とする修業年限1年の「研究科」設置を構想し、1937年にはこれと呼応するように小樽市議会により小樽高商の商科大学昇格案が出されたが、戦時体制の進行のなかでいずれも挫折した。その一方で苫米地は生徒の体力向上の観点からスポーツを奨励し、 1936年2月の第4回冬季五輪には生徒の宮島巌が出場している。1930年代後半以降、戦時体制が本格的に進行すると、「国士」的風格を持つ国家主義者であった苫米地は、小樽高商をこの体制に最大限協力させることで、高商を高工(工専)化しようとする軍部の圧力から守り、他のいくつかの官立高商が強いられた工専への転換を回避し、小樽経済専門学校への改編(1944年4月)に止めることに成功した。しかし反面、彼の専制的な学校運営は、学内のリベラル派の教官たちの反発を呼び、1942年9月には苫米地と衝突した手塚寿郎教授が上海の東亜同文書院大学に転出する事件も起こった。また一方で戦中には、高商に多数雇用されていた外国人教師に対しての当局の監視・弾圧が強まり、マッキンノンとスミルニツキーが「スパイ容疑」を理由に検挙された。戦後になり学園の民主化が進行すると、苫米地校長の専制的な運営に対し長年蓄積していた教員・生徒の不満が噴出した。苫米地は政界への転身を理由に1946年3月、校長を辞任したため、小樽経専における戦後体制への移行は第4代校長の大野純一によって進められた。同年の創立35周年を機に、商科大学への昇格運動が再び盛り上がり、教職員や同窓会、小樽市が一体となって運動が進められた。経専については北海道大学(戦後、北海道帝国大学を改称)の経済学部の母体として包括する案もあったが、昇格運動の結果、GHQは「国立大学は一県一大学」原則の例外を認めて、道内には北大に加えて新制小樽商科大学の2つの国立大学が設置されることとなった。これにより小樽経専は、官立経専において唯一単独で大学に昇格することに成功し、1949年5月の小樽商大の発足に伴って同大学に包括、1951年3月に最後の卒業式を挙行し廃校となった。戦時期の1944年9月、北方経済研究所(北海道経済研究所が経専への改組と同時に改称)の機関誌として『商学討究』から『北方経済研究』へと改題していた経専の紀要誌は、戦後の1946年6月、『社会経済研究』に再び改題され、新制移行後の1950年12月に『商学討究』の旧題に復し、小樽商大の研究紀要誌として現在に至っている。設立から小樽商大へ移行して現在に至るまで小樽市緑の校地(設立時点では市制が施行されておらず小樽区)が維持されている。緑校地は高商生から「緑丘」(りょくきゅう)の愛称で呼ばれ、同窓会である緑丘会の名称の由来ともなった。

出典:wikipedia

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