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スピッツ (バンド)

スピッツ("Spitz")は、草野マサムネ、三輪テツヤ、田村明浩、崎山龍男の四人から成る日本のロックバンド。進学のために上京した4人が集まり1987年に結成。新宿ロフト、新宿JAM、渋谷ラ・ママ、下北沢屋根裏など都内のライブハウスを中心に活動し、1991年にポリドールよりメジャーデビュー。以来メンバーチェンジは一度もない。所属事務所はロード&スカイ(2001年よりスピッツのマネージメント事業はグラスホッパーとして分社化)。1995年にシングル「ロビンソン」がロングセラーとなりブレイク。詳細は後述の来歴の節を参照のこと。バンド名「スピッツ」は草野が高校時代から温めていた名前。草野は「s」に「p」が続く単語(「special」や「crispy」など)が好きであり、辞書でこの単語を見つけ発音やその意味(ドイツ語で「尖っている」「辛辣な」)が気に入ったことから命名された。また結成当初はパンクバンドであったことから(来歴を参照)、昭和時代に人気があった愛玩犬種日本スピッツに絡め、「小さい犬ほどよく吠える」という後付の意味も込めている。「スピッツ」は英語風の発音に基づいており(本来のドイツ語発音では「"シュピッツ"」)、デザイン上アルファベット表記も多用されるが、カタカナ表記が正式である。スピッツのファンクラブ「spitzbergen(スピッツベルゲン)」は、草野が世界地図から見つけた北極海に実在するノルウェー領の島「スピッツベルゲン島」からとられた。1995年にファンクラブ会員のみのライブ&トークイベント“GO!GO! スカンジナビア!!”が行なわれ、1999年より“GO!GO! スカンジナビア!!”はファンクラブ会員のみのライブハウスツアーとして3、4年に一度開催されている。1997年より毎年夏に大阪を中心に関西圏で開催されるイベント“ロックロックこんにちは!”を主催し、2001年からは“ロックロックこんにちは! in 仙台”がZEPP SENDAIにて開催されている。スピッツに影響を受けたアーティストは多く、様々なアーティストからリスペクトされており、楽曲をカバーされることも多い。また、草野の独自の歌詞表現も評価が高い。あるインタビューで自分たちのルーツを聞かれた際に、草野はCheap Trickの『In Color』、The Damnedの『Machine Gun Etiquette』、David Bowieの『Ziggy Stardust』、Rideの『Nowhere』、真島昌利の『夏のぬけがら』が好きなアルバムだと語っている。田村はIron Maidenの『Iron Maiden』、Queenの『A Night At The Opera』、Joni Mitchellの『Shadows And Light』、The Whoの『Live At Leeds』、Rushの『Moving Pictures』を選んでいる。崎山はMichael Schenker Groupの『Michael Schenker Group』、Motley Crueの『Dr.Feelgood』、LOUDNESSの『The Birthday Eve』、The Bandの『The Band』、The Policeの『Synchronicity』をよく聴いたと述べている。三輪はDef Leppardの『Pyromania』、『Bagdad Cafe(映画バグダッド・カフェのサウンド・トラック)』、XTCの『Oranges & Lemons』、The Policeの『Synchronicity』、Vandenbergの『Best Of Vandenberg』が原点であるという。ライブで44MAGNUMの楽曲I'M ON FIREのフレーズをカバーしている。1986年春、東京造形大学で草野と田村が出会い、重音部に入部。先輩で後のフライングキッズのメンバーの演奏に刺激され、今とはまったくジャンルの違うパンクをやることを決意。ドラムに同サークル部員を迎え、チーターズ(水前寺清子にちなんだネーミング)を結成。オリジナル曲もそこそこに、「365歩のマーチ」をパンク調にしたり、「「いちご白書」をもう一度」をブラック・サバス風にして演奏したりした。途中から草野のギターの負担をカバーするため、ギターを1人加え、バンド名もザ・スピッツに変更される。しかし、後に草野がTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」に打ちのめされ、活動休止となる。1987年に草野が、東京造形大学から武蔵野美術大学に再入学したことからバンド仲間とは疎遠になり、ザ・スピッツは自然消滅したが、その後も草野と田村の仲は継続した。ある日、草野がライブハウスでやれる本格的なバンド活動の話を持ちかける。田村は、同じく上京していた幼馴染の三輪を誘い、三輪は文化服装学院で同じフォークソング部に所属していた崎山をヘルプで誘う(崎山はドラムスの腕から、既に多くのバンドを掛け持ちしていた)。この4人でスピッツを結成し、7月に文化服装学院の「夏祭り」にて初ライブを行なう。その後、新宿ロフトを目標に、秋から新宿JAM 、渋谷ラ・ママ、下北沢屋根裏などでライブ活動を開始。翌年からはホコ天ライブも行なう。 音楽評論家の富澤一誠は「インディーズ時代のスピッツを形容する表現は〈ビートパンク〉」と述べている。バンドはブルーハーツの影響から抜け出せず、渋谷ラ・ママのブッキングマネージャーから「ブルーハーツの二番煎じでは先は望めない」と指摘される。また、草野もハンドマイクで暴れたり、観客をあおったりするスタイルが自分に似合わないと感じ始めていたこともあり、ドノヴァンを意識してアコースティックギターを持つようになる。この時に「恋のうた」や「ヒバリのこころ」などが作られ、スピッツのスタイルが確立されていく。また、ソノシート『鳥になって/UFOの見える丘』を自主制作し、1988年11月にリリース。新宿、池袋、神戸のインディーズショップでも売られるが、多くは知り合いに手売りとなった。1989年には新宿ロフトのイベントに出演するようになり、同年7月12日に新宿ロフトにて念願のワンマンライブを敢行、300人を動員する。その後、12月から新宿ロフトでマンスリーライブ「鳥になっちゃう日」を敢行。1990年3月には新宿ロフトのインディーズレーベル・ミストラルより初のCD『ヒバリのこころ』をリリースする。新宿ロフトに出演するようになった頃、多くのレコード会社からデビューの話が持ち掛けられる。その中には、後にスピッツのディレクターとなる、当時ポリドールの新入社員だった竹内修もいた。しかし、メジャーデビューすることによって自分たちのビジョンが変えられることを恐れていたメンバーは、レコード会社の前に事務所を決めたいと提案し、浜田省吾の事務所として設立されたロードアンドスカイを紹介してもらう。約1年程の交渉の末、1990年夏、事務所ロード&スカイ及びレコード会社ポリドールと契約する。1991年2月に、「“五千光年の夢”シアターコンサート Vol.1」と題したシアターコンサートを新宿シアターモリエールにて実施。この小劇場でのライブはシリーズ化し、同年9月までに「Vol.4」まで行なわれる。1991年3月25日、ポリドールよりシングル「ヒバリのこころ」と、1stアルバム『スピッツ』を同時リリース。翌月に大阪のFM局FM802では同アルバムから「ニノウデの世界」がヘビーローテーションに選ばれ、音楽専門誌ROCKIN'ON JAPANでは90年代型ニュー・ウェーブと紹介されカラーで扱われる等、一部の業界からは注目を浴びるも、CDはオリコンチャートには入らず。また、デビュー半年間のライブはシアターコンサート数本と、名古屋市民会館での「NAGOYA Live TV Special」のみとなり、それ以外はアルバム制作のためにスタジオ入りの日々を送る。同年11月には2ndアルバム『名前をつけてやる』をリリースし、初のホールツアー「名前のないツアー」を敢行。1992年の4月には、前作『名前をつけてやる』収録の「魔女旅に出る」でオーケストラアレンジを担当した長谷川智樹とタッグを組み、全編にわたりオーケストラアレンジを施したミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』をリリース。また、同日には弦楽奏者との共演ライブ「オーロラになれなかった人のために“蜜柑色の満月のもとで、まぼろしの物語を語ろう 〜一夜限りの絵空事〜”」を東京よみうりホールで実施。同年5月にはオフィシャルファンクラブ「スピッツベルゲン」が発足する。9月には、前作のミニ・アルバムで得たエコー感をバンドサウンドに生かし、ロックテイストに仕上げた3rdアルバム『惑星のかけら』をリリース。しかし、デビュー2年目であるこの時点まで、CDを出す度に売上は下回っていた。バンドは元々メジャーへの憧れが無かったとはいえ、バンド活動の継続と、自分達のビジョンを守ってくれるスタッフへの恩返しのためにも、売れることを意識し始める。その一端として、1993年4月より、初めて外部プロデューサーとして笹路正徳を迎え、レコーディングを開始。加えて同年3月から8月までの計6回、渋谷ON AIR(現ON AIR EAST)にてマンスリーライブ“スピッツの春夏夜会”を敢行。最終公演はチケットが完売する。しかし、その翌月の9月にリリースした4thアルバム『Crispy!』は結果的に不振となり、草野は自分の作る曲や歌声に自信を無くす事態となる。しかし、リカット・シングル「君が思い出になる前に」が初のオリコンチャート入りを果たし、それまで100人単位でしか増えなかったツアー動員も大幅に増えていった。1994年の4月と7月には土方隆行をプロデューサーに迎えたシングル「空も飛べるはず」と「青い車」をリリース、スマッシュヒットとなる(この時の「空も飛べるはず」の売上はまだ7万枚程度)。9月には再び笹路正徳をプロデューサーに迎えた5thアルバム『空の飛び方』をリリース、オリコン初登場14位を記録する。なお、この年には「君が思い出になる前に」でミュージックステーション、「青い車」でポップジャム、「スパイダー」でCOUNT DOWN TVに出演するなど、メディア露出も増えていった。1995年4月にリリースしたシングル「ロビンソン」が初のオリコンチャートTOP10入り、通算30週以上チャートにランクインするというロングセラーとなり、売り上げも162万枚の大ヒットとなる。7月のシングル「涙がキラリ☆」も初登場2位、98万枚のセールスとなり大ヒット。9月には6thアルバム『ハチミツ』をリリースし、アルバム初のオリコン首位、169万枚を売り上げる。10月からは40本を越える初のロングツアー「TONGARI'95-'96」をスタート。1996年1月にはフジテレビ系ドラマ「白線流し」の主題歌に「空も飛べるはず」が起用されリバイバルヒット、結果的にはシングル初のオリコン首位、148万枚を売り上げる。同年4月のシングル「チェリー」も161万枚の大ヒット。5月には篠崎ストリングスとの共演ライブ「カゲロウの集い」を東京、大阪、名古屋にて敢行。9月のシングル「渚」でシングル初の初登場1位を記録。10月には7thアルバム『インディゴ地平線』をリリース。これが笹路正徳プロデューサーとの最後のアルバムとなる。1997年1月にシングル「スカーレット」を発売、前作に続きオリコンチャート1位のヒットとなる。アルバムは発売されなかった。同年7月にはスピッツが主催するイベント“ロックロックこんにちは”をZEPP OSAKAで開催、その後、毎年行なわれるイベントとなる。8月には結成10周年を記念したシークレットライブを新宿ロフトで敢行、アマチュア時代の楽曲を中心に演奏する。1998年3月には共同アレンジャーに棚谷祐一(当時カーネーション)を迎え、セルフプロデュースとなる8thアルバム『フェイクファー』をリリース。同年5月からスタートした全国ツアー「fake fur」で、キーボーディストのクジヒロコが初参加、これ以降のツアーにおいて欠かせないサポートメンバーとなる。また、ツアー中の8月にはセルフプロデュースで、後に『99ep』(1999年1月1日リリース)に収録される「ハイファイ・ローファイ」「魚」「青春生き残りゲーム」をクジヒロコと共にレコーディング。1999年3月には、未アルバム化のシングルのカップリング曲を集めたスペシャルアルバム『花鳥風月』をリリース。この時期は新曲のリリース予定は無かったものの、サウンドの追求のため、9月から10月にかけてセルフプロデュースによるレコーディングを行う。また、ミックスダウンをマイアミのエンジニア、トム・ロード=アルジに依頼するため、10月に渡米。ロサンゼルスで初の海外レコーディングも行い、マイアミにてミックスダウン、その後、再びロサンゼルスに戻りマスタリングも行う。この時にマスタリングを担当したスティーヴン・マーカッセンは、一部のシングルを除き、2000年以降のスピッツには欠かせないエンジニアとなった。しかしその頃、レコード会社がベスト・アルバムの発売を無断で決定し、マイアミでのミックスダウン直後、現地に向かった所属事務所の社長高橋信彦から直接メンバーに伝えられる(この時の出来事は、関係者の間で“マイアミ・ショック”と呼ばれている)。『花鳥風月』リリース時、メンバーは「ベストアルバムを出す時は解散する時」と公表していたため、公式サイトにて詫び状を掲載。メンバーの不本意のまま、12月にベスト・アルバム『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』はリリースされるが、2006年1月に製造中止になるまでの約6年間、何度も再チャート入りするほどのロングセラーとなり、結果として200万枚を超える大ヒットとなる。2000年には石田小吉(現・石田ショーキチ)をプロデューサーに迎え、本格的なアルバムのレコーディングを開始。7月には9thアルバム『ハヤブサ』をリリース。初めてハードロック志向の同世代プロデューサーとの共同作業となり、ブレイク後の“王道ポップス”イメージを覆したアルバムとなる。このアルバムを引っ提げたツアーは「放浪2000」「隼2001」「純情2001」の三回に分けられ、公演数は計100本を越える。「隼2001」と「純情2001」の合間には、既にツアーで披露していた新曲「さわって・変わって」をプロデューサーに亀田誠治を迎えてレコーディングし、2001年12月にシングルリリース。2002年3月より、「さわって・変わって」に引き続き亀田誠治をプロデューサーに迎え、本格的なアルバムのレコーディングを開始。9月に10thアルバム『三日月ロック』をリリース。2003年は新曲のリリースこそなかったものの、この年の秋からフジテレビ「あいのり」の主題歌となった「スターゲイザー」(2004年1月リリース)で久々にシングルでオリコン1位を獲得。2004年3月には、1999年以降のアルバム未収録曲を集めたスペシャルアルバム『色色衣』をリリース。6月からはエンジニアに高山徹を迎え、アルバムのレコーディングを開始。翌年2005年1月には11thアルバム『スーベニア』をリリース。2006年3月、デビュー15周年を節目にシングルコレクションアルバム『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』と『CYCLE HIT 1997-2005 Spitz Complete Single Collection』を同時リリース。この年はレコーディングが中心となり、7月にはシングル「魔法のコトバ」(映画『ハチミツとクローバー』主題歌)のリリースはあったものの、ライブはイベント数本のみとなり、デビュー以来初めて単独公演が行なわれない年となる。また、このベストアルバムの発売により、アルバム総売上枚数が1000万枚を突破した。アルバムの1000万枚突破は、2004/9/13付の槇原敬之以来、1年9ヶ月ぶり。グループでは、2001/4/2付のEvery Little Thing以来、男性グループでは、L'Arc~en~Ciel以来で、ともに5年2ヶ月ぶりの達成となった。2007年で結成20周年を迎え、8月にZepp Tokyoで2日間に亘り「SPITZ結成20周年祭り」を開催。吉井和哉をゲストとして迎えた。10月には、12thアルバム『さざなみCD』をリリース。同時に、ila×spitz 写真展の"ILASPITZ Photo Exhibition"が開催。11月には、メンバーが書き下ろした書籍「旅の途中」が幻冬舎より出版。2009年1月、スピッツ初となるワンマン・アリーナ公演を、さいたまスーパーアリーナと大阪城ホールにて開催。同じく11月4日には、さいたまでの公演を収めたライブDVD「JAMBOREE TOUR 2009 ~さざなみOTRカスタム at さいたまスーパーアリーナ~」が発売され、スピッツのライブ映像作品としては6年ぶりの作品となった。2010年はリリース・ラッシュの年となり、6月23日には36thシングル『つぐみ』、9月29日には37thシングル『シロクマ/ビギナー』を立て続けにリリース、10月27日には約3年ぶりに13thアルバム『とげまる』をリリースした。2011年3月25日、メジャーデビュー20周年を迎える。当初は、これを記念してPV集『ソラトビデオCOMPLETE 1991-2011』が発売される予定であったが、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で4月に延期となった。4月13日からはツアー「SPITZ JAMBOREE TOUR "とげまる2011"」をスタート。このツアーではボーカル草野の急性ストレス障害、また被災地の甚大な被害により、開催が困難と判断された三郷と郡山の2会場と合わせて開幕当初の計5ヶ所6公演の開催が見送りとなった。7月には、一昨年に引き続き2回目のアリーナ公演「SPITZ JAMBOREE TOUR 2011 "とげまリーナ"」を開催。また12月には、この模様を収録したDVDと、スピッツ初のBlu-ray Disc作品『とげまる20102011』をリリース。2012年はオリジナルアルバム・シングルの発売こそ無かったものの、2月1日にはスペシャルアルバム『おるたな』をリリース。さらに3月20日からは、約5年ぶりとなるファンクラブ会員限定ツアー「spitzbergen tour 2012 "GO!GO!スカンジナビアvol.5"」をスタートさせ、全国22ヶ所(追加公演含む)のライブハウスにて公演を行った。2013年5月15日、38thシングル『さらさら/僕はきっと旅に出る』を、9月11日には『とげまる』から約3年ぶりのオリジナルアルバムとなる14thアルバム『小さな生き物』をリリース。さらに9月14日には16年ぶりとなる野外単独ライブ「スピッツ 横浜サンセット2013」を、横浜・赤レンガパーク野外特設会場にて開催した。11月1日からは小さな生き物を引っさげた全国ツアー『SPITZ JAMBOREE TOUR 2013-2014 “小さな生き物”』をスタート。2014年7月2日よりアリーナツアー『SPITZ THE GREAT JAMBOREE 2014 "FESTIVARENA"』を東京・愛知・大阪・福岡にて開催。東京会場ではワンマン初となる、日本武道館公演を4回にわたり開催した。また、7月10日の武道館公演のMCにおいて、「今日のライブ前に武道館のwikipediaを見たら、『スピッツは武道館での公演を頑なに避けている。』との記述がまだあった(9日に初日を迎えていた。)」と発言した。後に武道館の項目は加筆修正された。2015年3月21日より、2013年9月14日に横浜・赤レンガパーク野外特設会場にて開催された野外単独ライブ「スピッツ 横浜サンセット2013」の模様を劇場版としてノーカットで期間限定公開。4月15日、配信限定シングル「雪風」を配信開始。7月1日には、ライブビデオ『JAMBOREE 3 “小さな生き物”』(DVDとBlu-rayの2商品)を7月1日(水)に発売することが決定。ホールコンサート1公演だけの映像を商品化するのは、スピッツ史上初。3月27日から、ファンクラブ会員限定ツアー「spitzbergen tour 2015 "GO!GO!スカンジナビアvol.6"」をスタート。また2015年はスピッツとしては初めて、春に開催される音楽フェス(いわゆる春フェス)に出演した。※メンバー単独での参加作品については、それぞれのメンバーの項目を参照のこと。

出典:wikipedia

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