長野 久義(ちょうの ひさよし、1984年12月6日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。妻はテレビ朝日アナウンサーの下平さやか。佐賀県三養基郡基山町出身。佐賀県基山町立基山小学校1年生の時に地元の少年軟式野球チーム「基山バッファローズ」に入部。6年生時に主将を務める。基山中学校時代は九州硬式少年野球協会フレッシュリーグ所属の「筑紫野ドリームズ」に在籍。筑陽学園高校へ入学し、2002年の春季九州地区高校野球大会ベスト4進出。プロの誘いはあったが、日本大学生産工学部マネジメント工学科へ進学、硬式野球部(東都大学野球連盟加盟)へ所属。2年次までは三塁手だったが、打撃力を生かすため、3年次となるの東都大学野球春季1部リーグ戦から中堅手に転向。また、長野は外のスライダーを振る癖があったため、野球部の後輩にアドバイスを受けて、あえてホームベースから離れることになる。離れることにより、バットが届く球ならストライク、届かないならボールと見極めることで、弱点を克服した。4年次となったに急成長し、春季は12試合出場、打率.489(47打数23安打)、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404(52打数21安打)で1995年秋・1996年春の高須洋介(青学大)以来となる2季連続首位打者となり、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなった。同年秋の日米大学野球選手権、IBAFインターコンチネンタルカップ、2006年アジア競技大会に日本代表として出場。東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、読売ジャイアンツへの入団を熱望していたことから入団を拒否。に本田技研工業へ入社。同社のノンプロチームHonda硬式野球部へ入部した。Hondaでは第62回JABA東京スポニチ大会で社会人デビュー。主に3番・右翼手としてチームのベスト4入りに貢献し、同大会で新人賞。また4月の第55回JABA静岡大会では準決勝で先制本塁打を放つ活躍が認められ、大会最優秀選手に選出された。、ドラフト会議で巨人以外に指名された場合はプロ入りせず会社に残留する意志を固めていたが、巨人以外でも入団するとの情報を得ていた千葉ロッテマリーンズが2巡目で“強行”指名。当日のボビー・バレンタインとの面会を拒否し、11月25日の入団交渉後、12月3日に入団拒否を明らかにした。翌日にロッテ球団側に直接入団拒否を申し入れ、球団側も了承。Honda残留が決定し、2009年のドラフトで巨人の指名を待つこととなった。2月5日、巨人は長野にドラフト1位指名する方針を公表した。Hondaでは第80回都市対抗野球大会で打率.579(19打数11安打)の活躍で首位打者を獲得。チームを13年ぶりの優勝に導いた。10月29日のドラフト会議では巨人から確約通り単独1位で指名を受けた。ドラフト指名を2回拒否して3回目の指名を受けたのは、巨人の先輩に当たる岡本光(1982年に3回目の指名)以来となった。直後、原辰徳と対面し二岡智宏の移籍で空き番となっていた背番号「7」のユニフォームを手渡された。11月23日、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1500万円(金額は推定)で契約合意。同日、東京ドームで行われた「ジャイアンツファンフェスタ」で入団発表を行った。は、新人合同自主トレで、柔軟性・持久力には課題を残すものの、マシン打撃で鋭い打球、外野守備練習で快足を披露し首脳陣から信頼を得る。続くオープン戦でも結果を残し、同期新人の土本恭平、市川友也と共に開幕一軍登録された。その後、9月になると不振に陥り、同月17日、不振からプロ入り初の二軍降格を経験する。このシーズン終盤には坂本勇人の不振で1番での先発出場を経験するなど、4番・5番を除く全打順での先発出場を経験した。10月8日の東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)での試合は勝てば2位、負ければ3位が決まってしまう試合で、9回裏一死満塁で打席が回ってきたが三振に倒れてしまい、結局サヨナラのチャンスを逃してしまったチームも敗れてしまい、3位が決定しCSの本拠地開催権を確保できなかった。ただ、1年目にして規定打席に到達、打率.288、19本塁打をマークした。19本塁打は高橋由伸と並び、巨人の新人では3位の記録。これにより2010年の新人王を獲得。巨人からは前々年の山口鉄也、前年の松本哲也に続き、3年連続の新人王誕生となった。4月12日のヤクルト戦(宇部市野球場)で「6番・中堅手」として自身初の開幕スタメンに名を連ね、押本健彦から3点本塁打を含む5打数3安打5打点の活躍を見せる。7月14日の阪神戦では、前日の死球の影響でスタメンを外れたアレックス・ラミレスに代わり、巨人の第75代4番打者として先発出場を果たす。そして、シーズン終盤にかけては、阪神のマートンと熾烈な首位打者争いを展開。最終戦である10月22日の横浜戦では、1点ビハインドの9回裏無死満塁の場面で山口俊からプロ野球史上8人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録し、首位打者を決定づけた(巨人の入団2年目での首位打者獲得は、の長嶋茂雄以来、52年ぶり3人目)。このサヨナラ本塁打でサヨナラ賞を受賞、またセ・リーグ通算1000本目の満塁本塁打となった。この年は統一球導入の影響により多くの選手が打率低下に苦しんだが、打率.316、17本塁打、OPS.847と好成績を収めた。また、自身初となるベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。は、2年連続となる打率3割を記録。また、20盗塁(リーグ2位)・出塁率.382(リーグ2位)、そして同僚の坂本勇人と並びセ・リーグ最多安打となる173安打を放ち、1番打者としての役割を存分に果たす活躍を見せた。この最多安打により、入団以来3年連続でタイトルを獲得。また、2年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。ポストシーズンも絶好調で、クライマックスシリーズ初戦から、日本ハムとの日本シリーズで巨人が日本一を決めるまで全試合安打を記録。特に第2戦では初回先頭打者本塁打を含む2本塁打を放つなど攻守にわたって活躍し、優秀選手に選出された。同年シーズン終了後の11月6日に発表された、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出された。さらに12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りした。主軸として期待されたが、強化試合から不振に陥る。長野は「打てなくてピーピー言われているが、本番に入ったら任せてください」と意気込んでいたが、本戦でも明らかなボール球に手を出し凡退するなど不振が続き、打撃コーチの立浪和義からも「打席で迎えにいっている。練習で、しっかり修正してもらいたい。」と苦言を呈される。それでも前半戦はスタメン起用はされたものの、最後の試合となった決勝ラウンドなど後半の試合ではスタメンから外れることも多く、最終的に打率は.222に終わったが、出塁率.364、チーム3位タイの6打点を記録した。公式戦に入り、5月15日のロッテ戦で、右翼手として二死満塁の場面で、セス・グライシンガーの右前打を素早く処理して一塁で封殺させ、巨人ではの呂明賜以来となる右ゴロの補殺を記録した。前半戦は打率.259と長く不振が続いたが、後半戦は打率.313と復調を見せた。8月29日の阪神タイガース戦では、松田遼馬から自身二度目のサヨナラ本塁打を放った。9月12日のDeNA戦ではトニ・ブランコ、10月2日のヤクルト戦では打者走者松岡健一を一塁で封殺させ、シーズン3度目の右ゴロの補殺を記録した。シーズン3度の右ゴロ補殺は球団では中島治康以来70年振り。前半戦の不振もあって、入団以来続いていたタイトル獲得は途切れ、3年連続3割も逃したものの、3年連続でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。6月に月間打率.357を記録し、7月下旬から8月初旬には4番を務める試合もあったもののスタメン落ちや代打を送られる屈辱も経験した。8月13日の阪神戦から21日のヤクルト戦までの8試合で3本塁打7打点と調子が上がり始めたが、21日の試合で、9回にセンターフライを処理した際に右膝を負傷し(右膝関節挫傷と診断)、以降9試合スタメンから外れた。シーズン終了後の11月19日には右膝半月板の修復手術と右肘のクリーニング手術を受けた。3月29日、交際していたテレビ朝日アナウンサーの下平さやかと結婚を発表した。入団以来不動のレギュラー格であったが、このシーズンは絶不調でスタメンから外れることも多くなった。また、ボール球によく手を出してしまうため、原監督からは病院で動体視力検査を受けてくるように勧められたことも報じられた。不調はシーズン終盤まで続き、本塁打数は前年を上回ったものの、打率・安打・打点・出塁率・盗塁などほとんどの部門で自己ワーストの数字に終わった。から村田修一に代わり選手会長を務める。同年8月16日、出場選手登録期間が7年に達し国内FA(フリーエージェント)権を取得した。シーズンでは6月から約1ヶ月間ほど4番をつとめるなど、3年ぶりに全試合出場を果たし、安打数や打率は前年を大きく上回ったものの、本塁打、打点は前年を下回った。ヒットゾーンが広く、ボールゾーン打率がリーグ平均を大きく上回る。打席ではホームベースから離れて構える。これは外角のスライダーの見極めに難があったためで、Honda時代にコーチの助言で離れて立つようになった。内角のボールは鋭く踏み込んで左方向に、外角は右方向にさばく広角打法を持ち味とする。2012年までの通算の対左打率.289に対し対右打率.305と右打者ながら右投手に強く、特別苦手とする球種もない。しかし、2012年から2年連続で3桁三振を記録するなど、やや三振が多い傾向にあった。また、本人は犠牲バントを課題に挙げている。走塁面では50メートル5.8秒、右打者ながら一塁到達3.97秒の俊足である。守備では遠投120メートルの強肩で、右翼手と中堅手で起用されている。主に右翼手として起用された2010年はリーグの外野手中最多失策を記録、UZR-4.9を喫し、シーズン後に「プロに入る前は守備と走塁はできるかなと思ってたけど、ダメでした。来シーズンはがんばります」と語った。翌2011年は主に中堅手として起用され、毎試合前に大西崇之外野守備コーチと捕球・送球動作について確認を行い、ゴールデングラブ賞を受賞。2012年は前半戦は中堅手、後半戦は右翼手としてプレー。2年連続でゴールデングラブ賞に輝いたが、中堅手でのUZR-1.3、右翼手でのUZR-6.8と、いずれも平均を下回る数値を記録。2013年にはシーズン3度のライトゴロを完成させた。動体視力が良く、ルーキー時代の身体能力測定の「深視力」測定では「一流アスリートが100人やっても1回出るか出ないか」と言われている「誤差ゼロ」を2回計測した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。