国鉄キハ04形気動車(こくてつキハ04がたきどうしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した、一般形機械式ディーゼル動車である。ここではその前身である鉄道省キハ41000形と同系のキハ05形・キハ06形、および改造により派生した各形式を合わせて解説する。キサハ04形とキハ41000形の姉妹車両である鉄道省キハ40000形についてはそれぞれの項目を参照。本形式は1932年(昭和7年)に鉄道省が設計し、1933年(昭和8年)に竣工したキハ36900形(キハ36900 - 36935)を第一陣とする一連の16 m級機械式気動車シリーズを、太平洋戦争後の機関換装によりディーゼル動車化し、形式称号を変更したものである。設計全般は鉄道省によるものだが、その構造・機構面での基本となったのは、これに先立って日本車輌製造(日車)本店が開発した、日本初の18 m級ガソリンカーである江若鉄道C4形(1931年製造)などの私鉄向け大型気動車であり、その影響は、4枚窓構成の前面窓、型鋼と薄板を多用して軽量化された車体、菱枠構造の軸バネ式台車、それに駆動メカニズムなどに、顕著に現れている。これらは日本車輌製造が1920年代末期から試行錯誤を繰り返した末に実用領域に到達したものであった。しかし、鉄道省36900形には日本車輌式のシステムやノウハウ、あるいは設計がほとんどそのまま導入されているにも関わらず、鉄道省・国鉄側の設計担当者はこれについて一切言及していない。そればかりか、日本車輌製造が特許や実用新案を保有していた設計や機構について、鉄道省がその使用料を支払った形跡は発見されていない。気動車の分野に限らず、鉄道省および後身の日本国有鉄道の技術陣には、日本国内での圧倒的な最大手ユーザーという強い立場もあって一種の官尊民卑意識が強く、民間メーカーの独自開発技術をそのまま導入した場合でさえ、そのことに言及しないか「共同開発」という表現で実態を曖昧にする事例が少なくなかった。当時の設計担当者・北畠顕正は、キハ36900形開発から60年余りを経た最晩年にインタビューを受けたが、日本車輌製造からの技術導入・援用についてはまったく言及せず、その全てを鉄道省で開発したかのように証言している。1936年(昭和11年)までに138両が新造されたキハ41000形、および試作ディーゼル機関搭載車であるキハ41500形(初代)2両の計140両は、木炭ガス発生炉を搭載して代燃車として運行された一部を除き、戦時中の燃料統制で一時使用を停止されていたが、戦後になって一部が天然ガス動車化の上で復活した後、燃料事情の好転を受けて1950年(昭和25年)以降、機関を各種新型ディーゼルエンジンへ換装しディーゼル動車として再生された。その結果これらは使用燃料や搭載機関の相違から、一旦キハ41200形・キハ41300形・キハ41400形・キハ41500形(2代目)の4形式に細分された。窓配置1D (1) 14 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)、車体長15,500 mm、車体幅2,600 mm(乗降用ステップを含む最大幅は2,650 mm)、全高3,535 mmの半鋼製軽量車体で、各部には型鋼が多用された。その形鋼組立台枠は客車のような車端衝撃入力は考慮せず、垂直荷重のみを考慮した設計としており、また補強用の当て板の類を極力廃し、特に強度を要する台車枕梁上部・機関吊り下げ部以外は溶接組み立てとした。結果、自重は鉄道省公称値で約20 tと、設計当時の鉄道省制式車両では異例の軽量設計であった。製造を担当した日本車輌製造が発行したカタログでも自重20.09tと記載されており、実測値に即した公称値であったことが分かる。側窓は木枠による2段上昇式で戸袋窓と客用扉にも横桟があり、プラットホームの高さが低い地方線区での使用を前提として、客用扉は1段ステップ付きであった。前面窓は先行した江若鉄道キニ4に倣ってこちらも2段上昇式の4枚窓構成で、運転席のレイアウトの都合もあり、窓幅は左右両脇が500 mm、中央寄り2枚が580 mmと中央部がやや幅広とされている。屋根は木製帆布張りで、軽量化のために雨樋が省略され、扉上部に水切りが取り付けられた。車内は戸袋部がロングシート、それ以外が対面式配置の背摺りの低い固定式クロスシートで、ロングシート部には吊革が設けられていた。定員は109名である。塗装は竣工当時はぶどう色1号で、配置・時期により赤帯の有無があった。この際、当時試行されていたラッカー塗料を用いたものには正面に「ラ」の文字が記入されていた。ぶどう色1号の時期は短く、塗装規定変更により1935年(昭和10年)以降、キハ42000形同様、上半黄かっ色2号、下半青3号の2色塗り分けに変更された。エンジンは鉄道省が民間メーカーと共同で設計した連続定格出力100 PS (90kW) /1,300 rpmのGMF13を搭載する。この機関は当時江若鉄道などの私鉄が採用していたウォーケシャ社 () 製の「Big Six」こと6RB(連続定格出力105 PS/1,300 rpm)などの輸入大型機関に代わるものとして、それらに比肩しうるスペックで設計された国産品である。日本のエンジン技術が十分な水準と言えなかった当時、あえて自国開発設計のエンジンを採用したのは、国産化を重視した鉄道省の方針を反映したものといえる。構造面では、当時相前後して鉄道省も開発に関わったバス・トラック用大型シャーシ「商工省標準型式自動車」(のちの「いすゞ・TX」車の前身)用に石川島自動車が開発した6気筒ガソリンエンジン「スミダX型」との近縁性が指摘されている。シリンダブロックが肉厚なこともあり、出力の割には比較的重いエンジンである。これは、当時のガソリンエンジンは一般に摩耗対策が進んでおらず、シリンダ内部の摩耗が速かったため、シリンダ摩耗後にこれを削正(ボーリング加工)、新たなライナーを打ち込んでさらに再削正する再生措置が常識化しており、最初からその削りしろを考慮したつくりにされていたのが一因である。エンジン側面に装備されベルト駆動される空気圧縮機は、比較的小容量な2気筒式のC-420であった。キャブレターは大型のアップドラフト式を1基装備とする平凡堅実な手法で、初期にはアメリカの著名なキャブレターメーカーの一つ、ストロンバーグ製「UT-5」を装備し、その後、1932年(昭和7年)に設立された新興の国内メーカーである日本気化器がほぼコピーした同等品「トキハ」に切り替えている。サイドバルブエンジン側面の低い位置にキャブレターを配置する構造のため、燃料は床下吊り下げの300Lタンクからポンプなし、フィルターを介するのみの配管で重力供給された。補機類の中で唯一、点火プラグのみは国産化できず、輸入部品のボッシュ社製点火プラグが純正指定品となっていた。鉄道省は廉価に安定供給可能でかつ国内産業育成に資する国産品採用を原則としていたため、あえて高価な輸入品を選択したことは、国産点火プラグの品質水準がいかに不十分であったかの裏返しとといえる。十分な性能と品質の点火プラグを量産できなかったことは、当時の日本製ガソリンエンジン一般の最大のウィークポイントであった。その他の電装系補機類については点火コイルも含め、ボッシュの設計を模した芝浦製作所、東亜電機(1937年に日立製作所に合併、同社戸塚工場となる)の製品を装備していた。GMF13は当時の日本の工業水準が反映され、実用性ではウォーケシャ6RBに大きく劣り、特に低温時の始動性に問題があった。このため、輸入エンジンに比肩する大型エンジンとして鉄道省以外の外地鉄道路線や私鉄路線に導入された事例もあったものの、寒冷地では樺太庁鉄道をはじめ、発注時にGMF13を避けてウォーケシャ6RBを指定する事業者や、一時国産機関を採用したもののすぐに輸入機関に戻す事業者が少なからず存在した。キハ41500形(初代)として1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)に新製された2両(キハ41500・41501)にはGMF13に代わる6気筒100PS級ディーゼルエンジンの試作機が搭載されている。これらは、同じく試作ディーゼル機関を搭載したキハ42500形と同様に、新潟鉄工所および三菱重工が競作した試作機関であり、メーカー形式名はそれぞれLH6X、6100VDであった。変速機はキハニ5000形に引き続き、変速3段+直結1段(4速MT)の鉄道省独自設計品であるD211が採用されている。クラッチについても国産品が採用されたものの、その実は「ロング式」と称する、私鉄向け気動車で実績のあるアメリカ・ロング社製34A形円錐クラッチのデッドコピー品である。1936年(昭和11年)から1940年(昭和15年)にかけ、梅小路庫のキハ41038・41105の2両を使用して液体変速機の試験が行われている。これは神戸製鋼がスウェーデンのユングストローム (Ljungstrom) 社からリスホルム・スミス式のDFR1.15液体変速機のライセンスを得て製造した「神鋼式流体自動変速機」ことDF1と、大阪鉄道局の小宮山勉技手が考案した、重連総括制御用の回路を搭載していた。この回路は各車の搭載機関の遠隔制御を電磁空気リンクで行うもので、1940年(昭和15年)の試験時にはほぼ完成の域に達しており、関西本線、和歌山線、片町線、姫新線などで試運転を実施しているが、戦前の時点では量産化には至らなかった。1941年(昭和16年)にはディーゼル化をする計画で神戸製鋼所に機関を発注したが実現しなかった。なお、この際の液体変速機が、戦後TC-2として実用化されたものの原形である。小宮山技手は戦後、液体式気動車の量産が軌道に乗った後で、このシステム考案の功績により当時の国鉄工作局長より感謝状を受けている。キハニ5000形の設計を踏襲して、向かい合う2組のベベルギアを子歯車とし、これらを軸方向にスライドさせていずれか一方を親歯車にかみ合わせることで回転方向を逆転させる、D207傘歯車摺動式逆転機が採用された。これに対し、この逆転機を含む機関系各機器の裝架方法は大幅に変更され、日本車輌製造本店が開発した方式が全面的に採用された。車体装架の機関台枠上に、エンジン・クラッチ・変速機を搭載した。動力はユニバーサルジョイントを備えたプロペラシャフトを介して台車装架の逆転機に伝達されている。この逆転器搭載構造は日本車輌製造の実用新案で、回転トルクによる本体の転動を防止するために動台車のトランサム(横梁)と2本の平行リンクで結合される逆転機で車軸を駆動する、簡潔かつ当時としては合理的なシステムである。逆転ギアそのものは、当時一般的な、2組の向かい合った笠歯車を左右にスライドさせて回転方向を変更するシステムで、最終減速段の大歯車を含むギアボックスと一体化され、水平に近い2本のリンクでエンジンのトルクによる本体の転向を防ぐ構造であった。この日車開発の逆転機支持方法は完成度が高く、戦後まで長らくこれを凌駕しうる代替手段は開発されなかった。他メーカーは日車が保有する実用新案の回避を目的として別方式を採用したが、日本車輛の方式よりも優れたものを作ることは出来なかった。このため競合各社には、日車製逆転機を購入したり、有償で同型品を製作した例もあった。しかし鉄道省がこれに関する使用権を、料金を支払って取得した形跡は今のところ発見されておらず、車両発注数の調整(日本車輌への車両発注を意図的に増やす)で相殺した可能性が高い。この方式にはユニバーサルジョイントに無理な負荷がかからず、逆転機部分(ファイナルギア)のギア比(最終減速比)を変えることで走行特性の変更が容易に行え、機関台枠部分の仕様を走行特性の異なる形式間で共通化可能、という製造・保守上の大きなメリットがあった。この仕様は、鉄道省でも本形式に引き続き設計されたキハ40000形で勾配線区及び貨車牽引用にギア比を変更する必要が生じた際に有効に活用された。このためキハ40000形の逆転機はD206で本形式とは異なる。こうして制式気動車に採用され、川崎車両などの他の各社でも同型車両が量産された結果、これは以後の日本の機械式・液体式気動車における標準的な駆動系レイアウトとなった。なお、この方式は逆転機内の親歯車の軸の中心線と子歯車の軸の中心線が直交するため、親歯車側の軸をそのまま延長してもう一組の逆転機に動力を伝達する、という手法を採ることができず、1台車2軸駆動を実現するには、チェーンあるいはサイドロッドなどによる必要があった。しかも、ギアボックス一体構造の重い逆転機が車軸に吊り掛けられているため、電車の吊り掛け式ほどではないにせよ、台車のバネ下重量が大きくなるという問題もあった。このため、日本の気動車においてはキハ90・91形以降、変速機に逆転機を内装して台車側には減速機のみ搭載する方式(この方式の場合も、1台車2軸駆動を実現するには推進軸の干渉を避けるために台車のボルスタをなくし、Zリンク式の仮想心皿を採用(ボルスタレス台車)する必要があり、合わせて枕バネのダイレクトマウント方式によるダイアフラム形空気バネ化が必須であった)が一般化するまで、これらの問題回避、特に1台車2軸駆動の実用化には様々な困難がつきまとうこととなった。なお、この逆転機の減速比は3.489である。台車は菱枠構造のペデスタル支持軸バネ式台車であるTR26(軸距1,800 mm)である。これは設計当時、日車本店が各地の私鉄向け気動車に供給していた標準型台車(BB75など)を基本として、各部寸法を調整して再設計されたもので、何より軽量であることを重視した構造の台車である。日本車輛等の原型台車に倣って台車端梁はない。幅員と車軸長を詰めるため車軸はこの時代の国鉄車両で多用されていた標準軌対応可能な「長軸」を使わず、狭軌専用の短い「短軸」、それも許容荷重の小さい「7t短軸」を用いた。最初にキハ36900として製造されたグループでは、廃車になった旧型貨車発生品の7t短軸を、検品のうえ軸受部研削して再利用したという。なお、軸受には当時の鉄道省の車両では珍しいスウェーデンのSKF社製のローラーベアリングを使用していた。これは非力な機関出力を前提に極力走行抵抗を軽減することを目的として採用されたものである。後には日本精工 (NSK)、東洋ベアリングなどが製造したほぼ同等規格の国産品も採用された。電車や客車等でのローラーベアリング採用は戦後まで一般化しなかったが、気動車ではその黎明期からローラーベアリングが多用されており、本形式の設計された時期には半ば当然の装備となりつつあった。ブレーキは自動空気ブレーキと直通ブレーキを兼用する簡易な構造の、GPSブレーキと称するブレーキ弁が新たに設計され、搭載された。先行するキハニ36450形ではGAブレーキと呼称するA動作弁による自動空気ブレーキが搭載されていたが、長大編成での運転を考慮しないため、機構的には制御弁が電車用のAブレーキと比較して大幅に簡素化されていた。本形式も1両での運転が主体で、連結運転についても客車列車や電車のような長大編成はやはり想定外であったことから、必要に応じ連結運転に対応する自動空気ブレーキと単行限定ながら応答性の良い直通ブレーキを切り替え可能で、なおかつ軽量な新型ブレーキ装置が設計されている。連結器についても、一般的だが重い並形自動連結器を採用せず、機能的に劣り強度も不十分ではあるものの格段に軽量な、日車設計の簡易式連結器を、鉄道建設規定に適合するよう一部修正を施した上で採用した。鉄道省の気動車としては初めての試みである。もっともこの連結器は軽量だが強度が劣るため、回送時には連結器に負担がかからないように列車最後尾に連結する必要があった。戦時中に代用客車化された際に並形自動連結器へ交換する例があった他、戦後は新開発の日本製鋼所製小型密着自動連結器へ交換された車両もあり、簡易式連結器のまま残ったものは多くない。キハ41000形のうち、天然ガスの産地であった千葉・新潟地区に配置されていた、キハ41002・41019 - 41021・41033・41034・41053・41056・41060・41077・41088・41127の合計12両について、1948年(昭和23年)よりガソリンに代えて天然ガスを燃料とする天然ガス動車へ改造し、区分のためキハ41200形(キハ41200 - 41211)という新形式となった。この天然ガス動車はガソリン使用時の約80%に出力低下したものの、始動不良やエンジン損傷などの問題は、木炭ガス発生装置など他の代替燃料車に比べれば良好であった。しかし天然ガス動車は、ガスが燃料としては高価であったことや、ガス充填の手間がかかること、ガス爆発のリスクなどの問題を抱えており、その後の機関老朽化とディーゼル機関の実用化、燃料統制の解除によって役割を終えることになる。結局数年をおかずして再度改造され、試作ディーゼル動車であった旧キハ41500形(初代)の2両、およびキハ41500形の一部と共に、DMH17を2気筒減らしてGMF13とそのまま置き換え可能としたDMF13に機関を換装し、キハ41300形(キハ41300 - 41335)に改称された。燃料事情の好転を受け、1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけてキハ41000形73両の機関を日野自動車製DA55に換装してディーゼル動車化する工事が実施された。この換装により誕生したのがキハ41500(2代)形である。DA55は、1930年代末期から開発が進められ、戦時中に量産された陸軍統制型機関の後裔の一つであり、当時すでにトレーラーバスT11B型などに搭載されていた。キハ41000形の車体重量に対しては出力が低く、勾配線区での使用には適さないものの、既に使用実績があるため故障も少なく実用的であり、保守・運転の双方から好評を博したという。1951年(昭和26年)には、このキハ41500形と同仕様で車体設計を多少修正した車両が50両新造された。番号は41600 - と区分されたが形式はキハ41500形で、外観上では車体が全溶接構造でリベットがなくなり、屋根に雨樋が追加された。キハ41500(2代)形に搭載されたDA55は良好な使用成績であったが、やはり出力が不足であった。そのため一部の車輛は出力強化を図って1954年度(昭和29年度)に機関をDMF13に換装し、キハ41300形に編入されていた。DA55の強化形であるDA58が開発されたのを契機に、出力強化はDA55をDA58に改造して行われることとなり、1955年度(昭和30年度)より実施され、形式はキハ41400形に変更された。エンジンの改造にあわせて各部の更新修繕も行われることとなり、痛みの見られる戦前製の車輛から改造が行われ、1956年度(昭和31年度)末までに戦前製のキハ41500形は全てキハ41400形に改造された。1957年(昭和32年)の形式称号改定で、両数が増加した気動車の形式の整理が行われ、キハ41000グループについては、搭載機関の相違を根拠としてキハ04形・キハ05形・キハ06形の3形式に区分・改番された。また塗装についても、1959年(昭和34年)からは、ウインドシルより上をクリーム4号に、腰板部を朱色4号とした2色塗りに変更された。なお、使用線区によっては、幕板部の一部または全てを朱色4号に塗られた車両もあった。DMF13搭載のキハ41300形を改番したグループ。以下のように番台区分されている。DA58搭載のキハ41400形を改番したグループ。また、1957年度(昭和32年度)にキハ06形から追加改造された車輛もあり既存車の続番となった。追加改造車は車輛番号が偶然にも50番から付番されているため、便宜上50番台と呼ばれることもある。なおキハ06形からの改造車は、のちに全てキニ05形に改造された。北海道配属車の一部が、1962年5月から1963年9月までの短期間ながら、釧網本線・標津線直通の準急「らうす」に運用された事例があり、国鉄機械式気動車としては唯一の有料優等列車運用のケースである。DA55搭載のキハ41500形(この時点では、戦後製のキハ41600 - のみ在籍)を改番したグループ。1960年(昭和35年)にキハ05形の50 - 58(いわゆる50番台車)から改造された荷物ディーゼル動車。荷重6トンで、荷物の積み下ろしのため、片側2か所に1,800 mmの両開き扉を新設し、床下補強等を実施した。全車四国で運用されたが、1966年(昭和41年)に廃車された。1961年(昭和36年)にキハ04形から1両のみ改造された気動制御郵便荷物車(合造車)。両毛線で液体式気動車と連結して使用されたが、1965年(昭和40年)に廃車された。戦後間もなく一部が地方私鉄に譲渡された。さらに昭和30年代以降、老朽化や大型気動車導入による余剰により、廃車あるいは私鉄への譲渡がなされ、少しずつ数を減らしていったが、三河島事故を受けて整備が急がれたATS車上子搭載工事の対象外とされたため、国鉄線上にATSが完備された1966年(昭和41年)をもって営業運転を終了した。なお、向日町運転所に配置されていたキハ06 43は、向日町運転所の職員輸送用車として廃車を免れ、例外的にATSも装備されて最寄駅と運転所間を往復していたが、1969年(昭和44年)に廃車された。キハ41000グループは、16m級の車体が地方私鉄には手頃な大きさだったことや、戦時中の休車が復活せずに廃車された際の譲渡例は多く、中には複数の鉄道会社を渡り歩いた車両もある。また、譲渡後に液体式への改造、機関の交換を行ったものも多かった。なお、キハ06形の譲渡車は無かった。鉄道省の標準型気動車として量産されたキハ41000形には、鉄道省自身の手になるキハ40000形の他、下記の各社に、その設計を流用して製造された姉妹車と呼ぶべき車両が存在した。
出典:wikipedia
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