小林 可夢偉(こばやし かむい、, 1986年9月13日 - )は、日本の兵庫県尼崎市出身のレーシングドライバー。9歳でカートを始める。少年の頃より憧れのドライバーはアイルトン・セナであると発言している。1996年にカートレースにデビュー、実績を積み重ね2000年には全日本ジュニアカート選手権のシリーズチャンピオンとなる。2001年は全日本カート選手権にステップアップし、ICAクラスに参戦してシリーズチャンピオンを獲得、またフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を受講しスカラシップを得た。続いて4輪レースに出場することになるが、当時15歳であったためその前に日本自動車連盟(JAF)が限定A級ライセンスを発行するのをしばらく待たねばならなかった。限定A級ライセンス取得後の2002年度、エッソ・フォーミュラ・トヨタ最終戦にて4輪レースデビューを飾る。2003年は本格的に同シリーズに参戦しランキング2位。クラーク記念国際高等学校卒業後の2004年にはトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)の支援下、フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズに参戦しランキング7位。2005年度はイタリアシリーズに加えユーロシリーズも戦い、両シリーズともチャンピオンを獲得。なお小林はヨーロッパのフォーミュラ・ルノー選手権においてシリーズチャンピオンを獲得した最初の日本人であり、ヨーロッパのフォーミュラカー選手権において日本人ドライバーがタイトルを獲得したのは2001年度に金石年弘・佐藤琢磨・福田良がそれぞれドイツ・イギリス・フランスのF3選手権でシリーズチャンピオンとなって以来のことであった。2006年はASM Formule 3(現在のARTグランプリのF3部門)からダラーラF305・メルセデスでF3・ユーロシリーズを戦い、ランキング8位ながらルーキーカップを獲得した。またF3マカオGPにも出場しポールポジションを獲得する健闘を見せるが決勝は19位で終えた。この時のチームメイトはセバスチャン・ベッテル、このシーズンのチャンピオンを獲得したポール・ディ・レスタ、そしてギド・ヴァン・デル・ガルデであった。2007年も引き続き同チームのF3ユーロシリーズに参戦。同年6月30日、フランスのマニクール・サーキットで開催されたシリーズ第4戦の第1ラウンドでポールポジションを獲得しそのままF3初勝利を果たした。チームメイトはこの年のF3チャンピオンを獲得し、後にルノーからF1デビューしたロマン・グロージャン、ウィリアムズからデビューしたニコ・ヒュルケンベルグがいる。シリーズ4位。同年11月よりフォーミュラ1チームであるトヨタF1からフランク・モンタニーに代わり、サードドライバーとして起用されることが発表された。2008年はGP2にアジアシリーズも含め参戦。3月23日、GP2アジアシリーズのマレーシアGPにて日本人として初優勝。4月27日、ヨーロッパに戻って行われたGP2本戦の第1戦スペイン・レース2でも日本人として初優勝した。2008年-2009年シーズンとなったGP2アジアシリーズに、トヨタからのサポートを受けて参戦。2008年12月6日、ドバイGPにて08/09シーズンで初優勝。さらに2009年1月24日、バーレーンGPのレース1で優勝し、日本人初の連勝。2位に13ポイント差をつけランキング首位で挑んだ3月25日の最終戦、バーレーンの第1レースで4位入賞したことにより、第2レースを待たずしてアジアシリーズチャンピオンを獲得した。F1直下のカテゴリーで日本人が王座を獲得したのは初めてである。2009年10月2日に開幕したF1第15戦日本グランプリで、トヨタF1チームのレギュラードライバーであるティモ・グロックが体調不良により金曜フリー走行を急遽欠場したため、リザーブドライバーであった小林がその代役として出走した。翌日はグロックが復帰したものの、そのグロックは公式予選でクラッシュして脊椎を負傷したため、次戦以降を欠場することになった。これにより、小林は10月18日の第16戦ブラジルグランプリでF1デビュー、日本人としては18人目のF1ドライバーとなった。そのブラジルグランプリでは、予選11位を記録。決勝ではポイント首位のジェンソン・バトンを18周に渡り抑えて、一時3位までポジションを上げたが、惜しくも入賞に一歩とどかず9位完走だった。次戦のアブダビGPも参戦することとなり、前戦同様バトンをオーバーテイクして、一時3位を走行していた。予選12位から1ストップ作戦を成功させ、チームメイトのヤルノ・トゥルーリを上回る6位入賞を果たした。1ストップ勢での上位浮上は小林ひとりであり、2007年の佐藤琢磨以来、2人目となる完全日本製パッケージでポイント獲得をした。この2戦の活躍で、来シーズンのトヨタF1チームの正ドライバーの座を確かなものとした。しかし、そのアブダビGPからわずか3日後の11月4日、トヨタF1チームがF1から完全撤退することを発表し、2010年以降は他チームにシートを求めることとなった。2009年12月17日、ザウバーとのレギュラードライバー契約を発表し、撤退したトヨタを離れ2010年シーズンから新天地でのフル参戦が実現した。チームメイトはベテランのペドロ・デ・ラ・ロサ。第15戦シンガポールGPからデラ・ロサに替わりニック・ハイドフェルドがチームメイトになった。序盤戦はスタート直後の接触事故やマシントラブルにより結果を残せなかったが、トルコGPでは10位入賞し、チームのシーズン初ポイントを獲得した。中盤戦以降はマシンの改善もあり、コンスタントに入賞圏内を争うようになった。ヨーロッパGPでは予選18位からのスタートであったが、セーフティーカー出動の混乱を巧みに乗り切り、レース終盤の53周目までタイヤを交換しないという策に出る。その53周までのレースの大半を3位で走行し、レギュレーション上のタイヤ交換義務でソフトタイヤに履き替え9位でレースに戻り、新しいタイヤのグリップ力を活かし残り2周でフェラーリのフェルナンド・アロンソを、ファイナルラップの最終コーナーでトロ・ロッソのセバスチャン・ブエミをオーバーテイクし7位入賞を果たして、その印象的な走りは評価された。終始4位に抑えこまれていたマクラーレンのジェンソン・バトンも、インタビューで小林の走りについて"Brilliant!"(素晴らしい!)と称賛した。続くイギリスGPでも6位入賞。ハンガリーGP予選ではピットレーンの赤信号無視でペナルティを受け23番手に降格。決勝ではスタートで順位を上げ、セーフティーカー出動も味方して9位入賞を果たした。母国日本GPでは予選14位から、他のドライバーがソフトタイヤでスタートする中、ハードタイヤで走り出した。ハイメ・アルグエルスアリを14周目、エイドリアン・スーティルを18周目にヘアピンで抜き、全53周レースの38周目にピットイン。ソフトタイヤに履き替えると、アルグエルスアリをアウト側から45周目、ルーベンス・バリチェロを48周目、ハイドフェルドを49周目に同じヘアピンで抜き、計5回のオーバーテイクをした。そして2度目のアルグエルスアリをオーバーテイクする際に接触したことでマシン左側のディフレクター、サイドポンツーンの損傷に加えてフロントウィングの一部まで欠損している状況にも拘わらず7位入賞を果たし、観客を熱狂させた。なお、小林自身は何回オーバーテイクを行ったか記憶していないと語っている。続く韓国GPでは8位、ブラジルGPでも10位と3戦連続入賞を果たした。この年は決して競争力の高いマシンではなかったものの、ルーキードライバーとしては最も高いポイントである32ポイントを獲得しランキング12位。又、チームメイトと比較してもデ・ラ・ロサに7勝2敗5分、ハイドフェルドに3勝1敗1分している事になりベテランドライバー相手にも遜色ない結果を残した。2010年9月7日、ザウバーは小林をエースドライバーとして残留させることを発表し、2011年も引き続きザウバーから出走する。チームメイトには、新人のメキシコ人ドライバーセルジオ・ペレスが起用されている。開幕戦オーストラリアGPでは入賞圏内である8位でゴールしたが、レース後の検査でリアウイングに違反があったとして失格処分となった。第2戦マレーシアGPでは、マーク・ウェバーやミハエル・シューマッハらとの接戦を繰り広げ見事7位入賞。前戦の雪辱を晴らし、第3戦中国GP、第4戦トルコGP、第5戦スペインGPまで3戦連続で10位入賞を記録し、日本人F1ドライバーの中で最もポイント獲得している佐藤琢磨の記録「44ポイント」と並んだ。又、同じく佐藤が記録した日本人による連続入賞記録(2004年イタリアグランプリから2004年ブラジルグランプリまで)である「4戦」も並んだ。翌第6戦モナコGPでは同僚のセルジオ・ペレスがシケインで大クラッシュを演じ同グランプリの決勝レースを欠場。小林は単独で決勝レースに臨むこととなったが結果は自己最高位となる5位入賞を果たし、中嶋一貴以来日本人ドライバー2人目のモナコグランプリでのポイント獲得、モナコグランプリにおける日本人歴代最高位を更新した。同時に日本人獲得ポイント記録と、日本人連続入賞記録を更新した。続くカナダGPでは荒れた天候のレースで一時2位を走るも、7位でフィニッシュ。一部の日本のマスコミ(特にフジテレビ)はこの活躍と有力チームのシート事情を絡め、2012年シーズンに有力チームに移籍する可能性を盛んに報じた。小林自身も移籍の可能性とペーター・ザウバーへの恩義の間で揺れる心境を示唆していた。しかし7月28日にザウバーが小林とペレスの2012年残留を発表している。開幕戦オーストラリアGPでは、スタート時の接触によりリアウィングの翼端板が破損、DRSの使用に不安が生じた。そんな中で上位陣のクラッシュもあり6位入賞を果たした。第3戦中国GPではフリー走行から安定した走りを見せ、最終的に自己最高となる予選4位を記録する。予選2位のルイス・ハミルトンのペナルティにより決勝は3番手からのスタートとなったが、スタート時にトラブルが発生し順位を落とす。しかし10位でフィニッシュし、日本人としては1989年最終戦オーストラリアGPに中嶋悟が達成して以来23年ぶり、ザウバーチーム(BMW時代を除く。)としては初めてのファステストラップを記録した。第5戦スペインGPでも予選Q3進出したものの、ハイドロ系トラブルによって10位(ハミルトンが予選失格したため、9番手からのスタート)だったが、決勝ではジェンソン・バトンやニコ・ロズベルグをオーバーテイクし、自己最高タイの5位入賞を果たした。第6戦モナコGP予選ではQ2で敗退となり12番手となったが9番手スタートのマルドナードがフリー走行中にペレスと接触して10グリッド降格のペナルティを受け11番手スタートとなった。決勝では、スタート直後に第1コーナーでグロージャンがシューマッハとの接触をきっかけにスピンし、後続を巻き込む多重クラッシュとなり、そのクラッシュに巻き込まれリタイアを喫した。第7戦カナダGP予選はQ2敗退となり11番手となった。決勝ではシューマッハのリタイアなどもあり予選グリッドから2つポジションを上げ9番手で入賞を果たした。第8戦ヨーロッパGP予選はQ3進出を果たし、7番手スタートを手にした。決勝では7番手からスタートし、2周目には4番手までポジションを上げたが、ピットストップに時間がかかり順位を落とす。その後ブルーノ・セナと接触。この接触ではセナにペナルティが科される。その後フェリペ・マッサと接触してリタイア。マッサとの接触には可夢偉に非があるとして次戦のイギリスグランプリで5グリッド降格のペナルティが科された。第9戦イギリスGP予選では雨のコンディションの中行われ大波乱の予選となり1時間30分の赤旗中断となった。その中、マクラーレンのジェンソン・バトンがQ1敗退を喫し、ロータスのグロージャンもQ3進出を果たすがスピンしQ3を走ることができなかった。その中で可夢偉はQ2で敗退となり12番手となるが前戦のヨーロッパグランプリによる5グリッド降格のペナルティを受け17番手スタートとなる。決勝では1周目に大きく順位を上げその後も順調に順位を上げていくが37周目にピットストップをするときにタイヤがロックし指定の位置に止まることができずメカニック3人と接触。この事故によりピットストップに時間がかかりコースに戻ると12番手、そこからポジションを1つ上げ11番手でフィニッシュしポイントを手にすることはできなかった。レース後メカニックとの接触について審議され2万5000ユーロ(約240万円)の罰金処分を科された。第10戦ドイツGP予選は雨の降る中行われ、Q2では雨量が激しくなり各車がウェットタイヤに続々と変える中はインターミディエイトタイヤで走る戦略が失敗し予選13番手となるが、決勝では天候に恵まれ戦略面でも巧く事が進み、5位でフィニッシュした。その後、2位のセバスチャン・ベッテルのコース外を使ったオーバーテイクが審議対象となり、その結果決勝タイムから20秒加算ペナルティとなった為、最終的には自己最高の4位入賞を果たした。第11戦ハンガリーGPはフリー走行からマシンバランスに悩み、予選Q1は通過するもQ2で敗退(15位)。決勝では早めにミディアムタイヤに履き替え変則2ピットストップ作戦を決行するが、油圧系のトラブルでリタイアしたが、18位完走扱いでレースを終えた。第12戦ベルギーGPはウェットコンディションとなった金曜日フリー走行1回目でトップタイム、2回目では7番手を記録。ドライとなった翌日3回目でも4番手タイムを出し、午後の予選ではポールポジションのバトン(マクラーレン)に次ぐ2番手タイムで自己ベストをマークした。また2004年第7戦ヨーロッパGPの佐藤琢磨以来、8年ぶりの日本人予選フロントローも獲得した。ザウバーチーム(BMW時代を除く。)としても1999年第7戦フランスグランプリ以来のフロントローを獲得した。だが決勝ではスタートで失敗し、直後にロマン・グロージャンによって引き起こされた多重クラッシュに巻き込まれてマシンにダメージを負い、完走はしたものの13位に終わった。第13戦イタリアGPではチームメイトが2位を獲得したのに対して9位に終わり、第14戦シンガポールGPでも13位でポイント圏外で不振が続いた。しかし第15戦日本GPにおいて、予選4位となり、3位だったジェンソン・バトンがシンガポールGP後のギアボックス交換によりグリッド降格処分となったため3番グリッドからのスタートとなった。スタート直後にマーク・ウェバーをかわし2位に浮上するも、14周終了後の1度目のピットインの後、ダニエル・リカルドをオーバーテイクするのに17周目まで手間取ったこともあり、17周目にピットインしたフェリペ・マッサがピットイン後小林の前に入り再度3位となる。その後は終始ジェンソン・バトンに猛追されるもそのまま3位でゴール、日本人としては2004年アメリカGPでの佐藤琢磨以来8年ぶり、鈴鹿では1990年鈴木亜久里以来22年ぶりとなる、日本人3人目のF1GP表彰台登壇者となった。2012年はチームメイトを6ポイント下回ったものの昨年の倍の60ポイントを獲得しランキング12位となった。これはランキングでミハエル・シューマッハを上回る結果となった。日本GPの表彰台を含む9回の入賞(チームメイトは7回)や、自身初のファステストラップとフロントローなどを記録した。しかし、チームとの契約延長には至らず、最終戦ブラジルGP前に2013年のザウバー離脱が発表された。なお、この年は前述の通り9回の入賞を達成したものの、連続入賞は1度もなかった。2014年1月21日、ケータハムとの契約を発表した。チームメイトは新人のマーカス・エリクソン 。開幕戦オーストラリアGPでは予選Q2に進出し、15位(スターティンググリッドでは14位)を獲得するが、決勝ではスタート直後にブレーキトラブルでマッサに追突しリタイアに終わる。第6戦モナコGPモナコGPでは荒れた展開だったが、ショートカットをしてしまったため、後方のライコネンに順位を譲った際にライバルであるマルシャのビアンキに強引にスペースに入り込まれ、順位を奪われた挙句、接触でダメージを負った。その影響でチームメイトのエリクソンにもオーバーテイクされ、ビアンキが9位、エリクソンが11位に対して13位に終わる。第11戦を終えた時点で予選ではエリクソンに対して9勝2敗と大きく勝ち越し、決勝でも両者が完走したレースでは4勝1敗。しかしシーズン半ばにチームが身売りされた影響などから、第12戦ベルギーGP直前に突如アンドレ・ロッテラーとの交代が発表された。同時に小林自身はベルギーGP以降もチームに留まることも発表された。第13戦イタリアGPではレースドライバーとして復帰。予選では中国GP以来となるマルシャのビアンキを上回り、予選19位。決勝では直近のライバルであるビアンキを上回る好ペースで周回を続け17位完走。第16戦ロシアGP、ケータハムはパーツ不足によりフリー走行から2台共にマイレージ制限を実施。マイレージ制限により、初めて走るサーキットにも関わらず満足な走行は出来なかった。決勝では21周目に突如ピットインを命じられ、その場でリタイヤした。チーム発表によればリタイヤさせた理由はブレーキのオーバーヒートである。小林本人はリタイヤ直後、メディアに対して車に何も問題は無かったと語っている。第17戦アメリカGPではチームは今年7月にエンガヴェストSAによって買収されたが、その後、元オーナーのトニー・フェルナンデスとの間に論争が生まれ、両者は10月24日、管財人であるスミス&ウィリアムソンにチームの管理を委ねた。チームはオースティンでのレース参戦を目指していたが、管財人はアメリカGPとブラジルGPの2戦を欠場する許可をもらったことを明らかにし、小林は欠場を余儀なくされる。最終戦アブダビGPではチームはクラウドファンディングなどによる資金調達により、参戦することが可能となり、小林の参戦も決定した。エリクソンが離脱を発表したため、チームメイトはウィル・スティーブンスとなった。また、小林はこのグランプリがF1でのラストランになる可能性が高いことを認めた。予選は19位で、マシンの様々な状況がスティーブンスよりも劣る状態にも関わらずスティーブンスに勝利した。しかし決勝では残り約10周というところでマシントラブルでリタイアとなり、小林は最後のレースを終えた。その後マノー・マルシャと交渉したり、ハースF1の候補に上がるなどその後もF1復帰を目指していたが、現在2014年最終戦アブダビグランプリが小林最後のF1となっている。小林は2014年にトップチームへ移籍するため、2013年は「しっかりと戦えるチーム」のシート獲得を目指して交渉を行った。候補はロータスかフォース・インディアと考えられた。11月23日にはファンからの「資金協力をしたい」という声に応える形で、支援金を募る「KAMUI SUPPORT」を公式サイトに開設。12月18日までに1億8400万相当が集まり、日本企業のスポンサーを含めて800万ユーロ(約8.8億円)強の資金を確保した。しかし、12月18日にロータスがグロージャン残留を発表すると、小林は「戦えるチームへの移籍が不可能になった」として、支援金の受付終了を発表した。2013年についてはF1以外のカテゴリは考えていないと述べ、支援金は2014年のシート獲得活動に充てるとした。最終的に2013年はF1から離れて、アジア人として初めてスクーデリア・フェラーリとドライバー契約(3月11日契約発表)を結び、GTレースにおいてフェラーリのセミワークス的存在であるイタリアのAFコルセチームより、FIA 世界耐久選手権 (WEC) に参戦することになった。チームメイトは、ジャンカルロ・フィジケラ、ジャンマリア・ブルーニ、トニ・バイランダー。WECではバイランダー(最終戦はフィジケラ)とコンビを組み、フェラーリ・458イタリアGTCの71号車でLMGTE-Proクラスに参戦。開幕戦シルバーストン2位と好調に滑り出したが、マシンの性能調整 (BoP) に苦戦する。初挑戦のル・マン24時間レースでは総合21位(クラス5位)。地元富士は悪天候により打ち切り(クラス5位)。最終的にドライバーズランキングはクラス7位だったが、フェラーリのGTマニュファクチャラーズタイトル連覇に貢献した。F1の2014年シーズンが終了後、所属していたケータハムは翌年の参戦が不透明に。そんな中キャリア初期を支えたトヨタからスーパーフォーミュラ岡山テストへの参加オファーを受ける。テストにはチームルマンから参加。そして迎えた2015年、トヨタのモータースポーツ体制発表会にてスーパーフォーミュラへのフル参戦が決まった。実に12年振りの日本国内でのレースとなる。2016年はスーパーフォーミュラに加え、FIA 世界耐久選手権(WEC)にトヨタワークスから参戦、トヨタ・TS050 HYBRIDを駆る。日本企業の支援を受けてF1に昇格したという点では、F1ブーム期以降の日本人ドライバーの系譜に連なる。しかし、トヨタのF1撤退で後ろ盾を失いながらデビュー2戦のパフォーマンスを評価され、2010年のレギュラーシートを確保するに至った。起用を決めたザウバーチーム代表のペーター・ザウバーは「彼は資金を持ち込まずにF1チームに加わった最初の日本人ドライバーだ」「彼はドライブ能力のおかげでF1にいる」と評価した。しかし結局後に2013年の参戦にあたりチームは不明だが彼は10億円の資金持ち込みを要求された。F1ジャーナリストの今宮純は「小林はマクラーレンの候補リストに日本人として初めて名を連ねていた」と話している。元F1ドライバーの片山右京は「僕らの夢が動き出そうとしている」とコメントを残した。マシンの空力的性質上オーバーテイクが難しいといわれるF1において、積極的に追い抜きを仕掛ける姿勢は評価されている。2011年シーズンのオーバーテイク回数は99回で、これはミハエル・シューマッハ(116回)、セバスチャン・ブエミ(114回)についで3番目に多い。一方で、接触する場面もあることから海外を中心に「危険な走り」であると指摘を受けている。本人も接触の多さやアグレッシブ過ぎる部分については認めつつも、他車を巻き込んでのリタイヤは無いので危険ではない。安全だと主張している。タイヤマネジメントに定評があり、タイヤ交換回数を減らしたり、他のドライバーと異なるタイヤを選択することで順位を大きく上げるレースが多い。
出典:wikipedia
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