《レンミンカイネン組曲(レンミンカイネンくみきょく、フィン語:"Lemminkäissarjaan")》または《四つの伝説曲(フィン語:"Neljä legendaa")》作品22は、ジャン・シベリウスの交響組曲もしくは連作交響詩。フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に基づいた作品で、1890年代を通じて推敲と改作が繰り返され、約半世紀を経た1950年代にようやく現行版に落ち着いた。なお、4曲まとめての呼称はあくまで便宜的なものであり、出版は各曲別個に行われた。4曲まとめて演奏されることもあるが、先に出版されていた2曲、ことに「トゥオネラの白鳥」が単独で演奏されることが最も多い。「レンミンカイネンの帰郷」がこれに次いでよく演奏される。シベリウスはベルリン留学中の1890年にリヒャルト・ワーグナーのオペラ《タンホイザー》や楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》に接して感銘を受けた。1892年に声楽を含む大規模な交響曲『クレルヴォ』を発表したのに続き、国民的叙事詩『カレワラ』に基づく作品の構想を練っていた。この頃フィンランドの文学協会主催のオペラ・コンクールが行われており、オペラ作曲への意欲が高まった。こうして彼は、国民主義的な神話オペラ《船造り" Vaneen luomisen"》の構想に取り掛かった。1893年の夏に、作家ユアンナ・エルッコと共同で台本製作に取りかかり、プロローグのスケッチを書いている。その後、ワーグナーのオペラをさらに研究すべく、バイロイト、ミュンヘンへ旅行し、スコアを研究した。だが、研究するにつれ、その大仰で執拗な表現方法に違和感を持ち始めた。ミュンヘンから妻アイノに宛てた手紙の中ですでに、オペラよりもリストが取り組んでいる交響詩の方が自分には向いている、と書いている。1894年に製作途中の台本をフィンランドの劇場支配人カールロ・ベルイボムに見せるが、その評は否定的なものであった。自分の音楽の指向性、台本への否定的な評からオペラへの情熱は急速に冷えていった。やがてオペラ《船造り》の作曲を断念すると、その序曲を「トゥオネラの白鳥」に改作し、これを軸として、4つの交響詩からなる新たな管弦楽組曲の作曲に取り組んだ。これが結実したのが本作である。1895年から1896年にかけて「レンミンカイネンと島の乙女たち」と「トゥオネラのレンミンカイネン」、「レンミンカイネンの帰郷」の3曲が追加され、1897年に最初の全面的な改訂が行われた。「トゥオネラの白鳥」と「レンミンカイネンの帰郷」は1900年に、出版に向けて新たに改訂されたが、このとき放置された「レンミンカイネンと島の乙女たち」と「トゥオネラのレンミンカイネン」の2曲は、作曲者の晩年である1939年になるまで改訂されず、しかも1954年になるまで出版されなかった。1896年4月13日に作曲者自身の指揮により、ヘルシンキ・フィルハーモニー協会により初演された。その時は以下の構成が採られた。第1曲が細部において現行版と異なっているほか、終曲の長さが現在の倍近くもあった。このため、全曲を通じて1時間弱の長さがあったらしい。1897年11月1日にヘルシンキ・フィルハーモニー協会により初演され、やはり聴衆から熱狂的な支持が得られた半面、評論家からは消極的な評価が下された。曲順はまだ入れ替わっていないが、終曲が大幅に改作され、そのコーダも部分的に変更された。翌1901年の出版に向けて、後半2曲が最終的に改訂された。前半2曲が手付かずのままにされたのは、シベリウス夫人アイノの意見によると、ロベルト・カヤヌスの反応が好ましくなかったためだという。1900年の改訂から外された前半2曲が、1939年にようやく改訂された後、1954年に全曲出版として、初めて刊行された。この際に、中間の2曲の順序が以下のように入れ換えられ、現行のかたちに落ち着いた(シベリウス自身は、すでに1947年にはその意図を持っており、しかも自筆譜には「トゥオネラのレンミンカイネン」と「レンミンカイネンの帰郷」を連続して演奏するよう「アタッカ」の指示を記入しているという)。したがって、これが最終決定版であるといえる。ただし、当初の経緯からも察せられるように、交響曲のように全曲まとめて演奏することは必ずしも要求されておらず、演奏の順序については、慣習的に指揮者や演奏者の解釈や任意の裁量に委ねられている。曲順の変更についてはトゥオネラの白鳥も参照。詳細はトゥオネラの白鳥を参照。
出典:wikipedia
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