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中里 (東京都北区)

中里(なかざと)は、東京都北区の町名。現行行政地名は中里一丁目から中里三丁目。住居表示実施地域。東京都北区南東部(滝野川地区南部)に位置し、豊島区(駒込)との区境の地域である。JR山手線駒込駅の北東に位置する地域で、地域の一部が駒込駅にかかっている。一丁目と二・三丁目の間に山手線が通っており、三丁目に近接して京浜東北線が通る。一丁目には山手線内で唯一の踏切があり、仙人塔と称する踏切事故者等を供養する角塔婆が建つ。豊島区との境が商店街となっているほかは、全域が住宅街となっている。また、地域の西端に本郷通り、地域の東部に田端高台通りが通る。一・二丁目に近接してJR山手線駒込駅、一丁目に滝野川警察署中里交番、東中里公園、二丁目に西中里公園、三丁目に聖学院小学校、聖学院中学校・高等学校、女子聖学院中学校・高等学校、円勝寺、万栄寺がある。東は田端、西・南は豊島区駒込、西は西ヶ原と接する。住宅地の地価は2013年(平成25年)7月1日に公表された東京都の地価調査によれば中里2-20-5の地点で50万2000円/mとなっている。旧石器時代あるいは縄文時代ごろから人が定住したと思われ、中里貝塚が見つかっている。奈良時代には、この周辺は「武蔵国豊島郡荒墓郷」と呼ばれていた。荒墓郷は現在の台東区、荒川区、北区南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。この時代は律令制による条里制の区画整理が行われ、中里の村名はこれに由来するという。この村名から見られるように、条里制の豊島駅(現在の北区豊島周辺)に繋がる地域として、平安時代の末期ごろから平塚郷と呼ばれ、豊島氏の支配下となり、豊島氏の本城である平塚城があった。近世には、中里村は豊島郡岩淵領に属し、1646年(享保3年)には、赤羽根村、田端村、稲付村と共に東叡山寛永寺領となり、幕末には円勝寺領ともなっていた。新編武蔵によると100戸以上の家数を数える村と記されており、武蔵田園簿によると178石余りで、天保郷帳によると天保年間には235石を数えた。また、中里村の鎮守は隣接する上中里村の平塚明神社であった。円勝寺の五本松は慶長年間に徳川家康が腰掛けたと伝えられていることから、「家康腰掛の松」とも言われ、これにより5石の朱印を賜ったとされる。村内は江戸期より石神井用水を引いており、明治時代には下郷用水と呼ばれた。中里村を含む18ヶ村で石神井川下用水組合を結成し、農業用水として管理していたが、中里村を含めた下郷用水沿いの地域の宅地化により昭和初期に組合が廃止され、現在は完全に暗渠化されている。また、石神井用水は音無川とも呼ばれた。明治になると武蔵県知事の管轄となり、1868年(明治元年)9月3日(旧暦7月17日)にほどなくして東京府の管轄となる。1878年(明治11年)11月2日には郡区町村制が施行され、同時に豊島郡を北豊島郡と南豊島郡に分離されたことから東京府北豊島郡中里村となり、1879年(明治12年)3月14日に田端村、中里村と3ヶ村連合を組み、1889年(明治22年)4月1日に上中里村、滝野川村、田端村、西ケ原村及び下十条村の一部と合併し、北豊島郡滝野川村大字中里となる。1930年(昭和5年)には大字中里のうち、国鉄東北本線より東が大字昭和町一丁目-三丁目として分離され、2年後の1932年(昭和7年)10月1日には東京市に編入される。旧滝野川町はそのまま滝野川区となり、大字中里は中里町として改められた。関東大震災後には人口が急増し、近郊農村から住宅地としての性格を強く持つようになる。1943年(昭和18年)7月1日には、東京都制により東京都滝野川区中里町となり、1947年(昭和22年)3月15日には、滝野川区と王子区の合併により北区が発足し、東京都北区中里町となる。1953年(昭和28年)、中里町のうち京浜東北線以東を上中里二丁目に編入し、1976年(昭和51年)5月1日に中里町の全域、西ヶ原町・田端町の各一部より北区中里一丁目 - 三丁目を新設・住居表示を施行し、現在に至る。「中里」の由来には2説あるが、どちらが正しいものであるかははっきりしていない。ここでは、滝野川町大字中里時代に存在した小字を列挙する。

出典:wikipedia

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