下地島(しもじじま)は、宮古列島の島のひとつである。行政区分としては沖縄県宮古島市に属する。2005年に宮古島の周辺自治体と合併して宮古島市になるまでは、東側に隣接する伊良部島とともに宮古郡伊良部町を形成していた。日本で唯一、パイロット訓練に用いられる下地島空港がある。面積9.54km²、周囲17.5km、人口48人で、島全体が第四紀更新世の多孔質の石灰岩で覆われている。河川はなく、伊良部島との間には幅数十mの狭い水路が約3kmにわたって続く。水路が狭いため、航空写真などでは伊良部島と一体に見えるが、両島は地続きではない別の島である。この水路には、南(渡口の浜側)から順に乗瀬(ぬーし)橋、伊良部橋、仲地橋、国仲橋、たいこ橋、なかよね橋の6本の橋が架かっていた。このうち乗瀬橋は老朽化のため2009年から通行止めとなって、2013年1月に取り壊されており、2017年度完成予定で架け替えが行われている。島の南側は単調な海岸で、西側は激しい海食崖が続く。北海岸は下地島空港の滑走路が海に突出し、小さな入り江がある。15世紀後半に朝鮮の船が宮古島に漂着した記録の中に下地島に比定される「時麻子島」の記述があり、宮古島と下地島など近隣の5島の島民は互いに往来していたという。遺跡は見つかっていないが、当時人が住んでいたことがうかがえる。また、古琉球の頃にはキドマリ村(木泊村)が伊良部島の佐和田にあったとされ、村跡が残る。この村は古琉球の間に津波で壊滅したとされるが、16世紀の嘉靖年間に喜屋泊与人に関する記述があり、この喜屋泊が木泊とするならば当時まで村が存在したと考えられる。近世初頭に伊良部村の伊安姓国仲与人が八重山で牡牛・牝牛を2匹購入してきて放牧したといい、以降は牛や馬の牧場があった。1767年に与世山親方は、馬が風雨や寒暑をしのぐためにアダンや諸木を植えるよう指示している。1769年に伊良部島との間に佐和田矼(ナカユニ橋)が築かれたが、1771年の八重山地震にともなう明和大津波により一部が破壊された。この津波では下地島に13丈(約40m)もの高さの大波が打寄せ、西岸の帯岩などが打上げられた。平坦なため放牧地や畑が水没し、馬や牛、羊などが溺死している。
出典:wikipedia
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