オシムジャパン(Osim Japan)とは、サッカー日本代表のうち、イビチャ・オシム監督在任中の代表チームを指す愛称。期間としては2006年7月から2007年11月までを指す。2010年に南アフリカで開催予定のワールドカップに向けた体制と見られていたが、オシム自身が健康を害したことによって退任し、岡田武史が急遽後任を務めた。2006年7月21日のオシム正式就任をもってオシムジャパンが誕生。この時期の日本サッカー界は、直前のドイツワールドカップ グループリーグ敗退を受け意気消沈していた。大会中に、海外でも実績を残した中田英寿が引退を発表するなど、日本サッカー界に閉塞感が漂いつつあったこの時期に、ジェフユナイテッド千葉で強化実績を上げていたオシムの就任は歓迎された。オシムの半生を綴った『オシムの言葉』(木村元彦著)がその年の高校向け課題図書となり注目されるなど、話題性の高いスタートとなった。フォーメーションは主に4-4-2、4-5-1がメイン。中村俊輔、遠藤保仁らをサイドに起用し彼らのキープ力、ゲームメイク能力を生かしながら、加地亮、駒野友一らサイドバックが積極的に攻撃参加をし場合によっては2バックの様な陣形で戦う攻撃的なポゼッションサッカーを試みていた。後の岡田体制では前線にアジリティーのある選手が多く起用されているのに対し、オシム体制でのFWは巻誠一郎、矢野貴章など長身でフィジカルの強い選手が先発で多く起用されていた。また、CBには最低でも1人は足下の技術やパス精度などの展開力を求め、田中マルクス闘莉王が出られない時などは本職がCBの選手よりも本来MFの阿部勇樹を起用していた。攻撃面では、同じポゼッションサッカーを標榜するといえども、ジーコ時代と比較して中央からの攻めが減少し、フィールドをワイドに使い両サイドでのパス交換、オーバーラップによるサイドアタックを意図する割合が非常に大きくなった。そのためサイドチェンジによる逆サイドアタックも多様された。練習の段階から運動量と共にパスのタッチ数などが制限されたものが多く、試合でもパスを含めた全ての面でスピーディーなサッカーを目指していた。しかし、相手が自陣に引いて、カウンター狙いに徹した場合などでは、サイドの選手の仕掛けが減ることから、ゴール前へ運べない・横パスバックパスの多いサッカーになる事もあった。ただし、オシム監督自身がボールを保持している方が好みだったことを後に中村俊輔が理由として挙げている。守備面ではボールよりも人を基準としたマンマークを主体にしており、ボールを基準に2ライン、あるいは3ラインを構成するゾーン・ディフェンスが主流の現代サッカーにおいては、やや古風かつ異端である。また、ジーコジャパン同様、基本的にはオフサイドトラップを多用せず、ラインにおいてスペースのカヴァーリングを重視する守備法であった。起用法としては、ある程度色々なポジションが出来る選手-ポリバレントな選手を多用した。その理由の1つとして、あらゆる場面や状況に対応できるためと述べている。国内組をベースに能力が高い中村俊輔、高原直泰といった海外組を付加する形になった。2007年のペルー戦で中村俊輔、高原直泰が初招集され、その後、稲本潤一や中田浩二、松井大輔が招集された。2010 FIFAワールドカップを見据えアテネ五輪世代から、鈴木啓太、田中マルクス闘莉王らを抜擢し、主力に定着させた。中でも鈴木啓太は全試合に出場するなどオシム監督から高い評価を受けていた。北京五輪世代からも数人が招集されたが、オリンピック予選を優先させたため、一人も定着するには至らなかった。しかし、病に倒れ監督の勇退(解任)が言い渡されるまでの入院中にこれから招集をしようと考えていた選手も多く、入院中に書いていたリストにはオリンピック世代やワールドユース世代の選手が数人入っていた。当初は国内組を中心に試合ごとにメンバーを変えていたが、オシム自身は「代表チームは、試合ごとにコロコロとメンバーを変えるものではない」と考えており、アジアカップ2007からは主力メンバーをほぼ固定した。オシムが監督になって初めて選ばれた選手は以下の通り(トレーニングキャンプ含む)。
出典:wikipedia
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