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宮城野橋

宮城野橋(みやぎのばし)とは、仙台市都心部のJR仙台駅のすぐ北にある自動車・歩行者両用の跨線橋。通称「X橋」(えっくすばし)。地上の名掛丁新道・東北本線・仙山線・東六番丁の上を宮城野橋が直交してまたぎ、さらにその上空を東北本線と並走するように東北新幹線が通過する。宮城野橋は、並走する元寺小路と名掛丁を1本に束ねて、名掛丁新道・東北本線・東六番丁の上空をまたぎ、また鉄砲町と二十人町へ2つに分かれる形であったため、いつからか「X橋」と呼ばれるようになった。その後は正式名称に代わり、通称が一般化した。このような形状の橋は一般には「クローバー橋」と呼ばれる。モータリゼーションに合わせ、跨線部は対面通行で跨線部に繋がる部分は一方通行が導入された。すなわち、自動車で橋を渡る場合は、元寺小路(北西)から橋に入って鉄砲町(北東)に抜ける道筋と、二十人町(南東)から橋に入って名掛丁(南西)に抜ける道筋になった。2016年度(平成28年度)の完成を目標に、都市計画道路元寺小路福室線を通す片側3車線(合計6車線)、長さ152mの橋に架け替える工事が進められており、二代目宮城野橋は2014年7月10日未明に撤去されている。2008年(平成20年)に仙台駅西口ペデストリアンデッキと同じ高さで「仙台駅北部名掛丁自由通路」が設置され、仙台駅北側において人が通る東西通路として宮城野橋を補完している。江戸時代は、仙台城大手門前を西端とする「大町・新伝馬町・名掛丁・二十人町」が仙台城下町を東西に貫くメインストリートで、現仙台駅付近ではその北側に元寺小路(東に鉄砲町が続く)が並走していた。これら2本の東西道は二十人町および鉄砲町の東の榴ヶ岡手前で合一して石巻街道となり、同街道最初の駅の原町宿、仙台の外港である塩竈、日本三景・松島、東北太平洋岸海運の拠点港・石巻へと繋がっていた。1887年(明治20年)、日本鉄道本線(1909年〈明治42年〉に東北本線と改称)が仙台区を経て塩竈まで開通すると、元寺小路と名掛丁の2つの並行する通りは東西に分断され、踏切が設置された。操車場への線路増設や、1920年代初頭の仙台圏での東北本線複線化などにより、踏切は「開かずの踏切」のような状態となった。1917年(大正6年)頃、踏切閉鎖と跨線橋設置の案が出された。反対運動もあったが、旧仙台城二の丸の第二師団と、歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を安定的に結ぶため、歩兵四連隊の強い要請によって宮城野橋は建設された。1921年(大正10年)に開通した初代の宮城野橋は、鋼拱橋で長さ30.8m、幅7.3m。仙台駅の東と西を繋ぐ重要路線であるため、当時としては高価なアスファルト舗装がなされた。当時の仙台市には舗装された一般道路が存在しておらず、同橋と広瀬橋(広瀬川に架かる旧奥州街道の橋。旧城下町と長町とを繋ぐ)のたった2つの橋しか舗装されていなかった。1928年(昭和3年)に名掛丁には線路の下を通る地下道が設置された(ただし、四ツ谷用水があったため少し曲がっている)。現在の宮城野橋は、1961年(昭和36年)竣工である。日本国有鉄道が発注し、橋の面積は1,260m、一等橋で20tの耐荷重(活荷重)であり、櫻田機械工業株式会社が施工した。1990年代後半の再開発ビル「アエル」の建設に伴い、西側のハピナ名掛丁(中央通り)に繋がる南西行き一方通行部分の廃止、および、跨線部西詰めからすぐに北側に屈曲してX橋交差点に繋げ、同区間を対面通行化する工事が行われた。そのためyを横にしたような形となった。これにより「y橋」という方がより実情を表すこととなったが、その後も「X橋」との通称は用いられた。仙台駅東第二土地区画整理事業により、2010年(平成22年)2月15日以降は東側の鉄砲町への北東行き一方通行部分が通行止めとなり、二十人町方向が一方通行から対面通行になった。そのため蛇行しつつも両方向ともが一本の道で繋がれた。橋の正式名称より通称の知名度の方が高くなってしまったため、橋の西端にある広瀬通や駅前通などとの変則六叉路交差点の名称は「X橋交差点」となっている。また、かつてこの付近を通っていた仙台市営バス、宮城交通のバス路線のバス停名称も「X橋」だった。ただし、二十人町と鉄砲町で一方通行になっており、二十人町経由の上り線にのみ「X橋」バス停は存在し、鉄砲町経由の下り線にはなかった。バス路線の廃止とともにバス停も廃止されている。

出典:wikipedia

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