ヴァンウォール(Vandervell Products Ltd)は、かつてF1に参戦していたコンストラクター。1958年に制定されたコンストラクターズ・チャンピオンシップの初代獲得者である。ヴァンウォールという名称は、母体であるヴァンダーベル社とその商標「シンウォール」を組み合わせて命名された。ヴァンダーベル社の創業者トニー・ヴァンダーベルは、アメリカ人技術者が開発したベアリングを「シンウォール("Thinwall":「薄い壁」)」と名付け、イギリス国内で特許を取得した。この技術は内燃機関の高回転化に貢献し、第二次世界大戦中の戦闘機のエンジンなどに使われ、ヴァンダーベル社の事業を成功させた。レース愛好家であるヴァンダーベルは、フェラーリの市販スポーツカーの顧客としてエンツォ・フェラーリと交際していた。また、スクーデリア・フェラーリのF1マシンを譲り受け、「シンウォール・スペシャル」と名付けて国内レースに出走させていた。フェラーリ初の自製エンジン、ティーポ125にシンウォール・ベアリングが使われるなど、両者の関係は親密なものであった。ところが、その関係にひびが入る。ある日、ヴァンウォールは購入車の故障のクレームを言いにフェラーリの本拠地モデナを訪れたが、多忙を理由に3時間半も待ちぼうけを食わされた。バンウォールはエンツォのあしらいに立腹し、レースで見返すことを決意する。後援していたBRMのプロジェクトが難航していたこともあり、自らコンストラクターを設立してF1に参戦することとなった。ちなみに、フェラーリへの不満が動機という点では、後のランボルギーニのスポーツカー開発も同類である。エンツォは顧客をぞんざいに扱う性癖があり、その不遜さが幾つもの因縁を生み出している。クーパー製シャシーにノートンのオートバイエンジンを改造した直4エンジンを搭載したヴァンウォールのF1マシンは、1954年の地元イギリスGPでデビューした。翌1955年まで成功を収められず、マイナーフォーミュラの新興コンストラクターロータス・エンジニアリングにシャシー製作を依頼。コーリン・チャップマンらの手掛けたマシンは徐々に戦闘力を上げ、1956年のノンタイトルレースで初勝利を挙げた。1957年には、スターリング・モス(第2戦から加入)、トニー・ブルックス、スチュアート・ルイス=エヴァンズら母国のスタードライバーを揃え、フェラーリ、マセラティらイタリア勢を脅かす存在となる。チームとして、また英国車としての初勝利は第5戦の地元イギリスGPで、当時の規則では1台のマシンを乗り継ぐことが許されていたため、モスとブルックスの手により果たされた。モスはペスカーラGP・イタリアGPでも連勝し、フェラーリの地元で鼻を明かすことに成功した。1958年も強力なラインナップを保ち、フェラーリを圧倒する快進撃を見せる。モスが第3戦オランダGP、第9戦ポルトガルGP、最終戦モロッコGPを勝ち、ブルックスが第5戦ベルギーGP、第8戦ドイツGP、第10戦イタリアGPを勝つなど、シリーズ11戦中6勝を挙げる強さで、この年からコンストラクターにも与えられるようになったチャンピオンの栄光を手にした。しかし、勝利が分散した結果、ドライバーズチャンピオンはフェラーリのマイク・ホーソンに奪われた。モスは最速のドライバーでありながら、1勝のホーソンに有効ポイント上僅か1点差で及ばなかった。そして、最終戦モロッコGPでは、チームに愛されたルイス=エヴァンズが炎上事故で重傷を負い、後日死亡するという悲劇も起こった。トニー・ヴァンダーベルはフェラーリへの復讐を果たし、医師から体調面で忠告されていたこともあり、このレースをもって本格参戦を中止した。1959年、1960年にも各1レース1台ずつ出走したが、すでに戦闘力は失われ、やがてヴァンウォールの名はレース界から消滅した。チーム発足・参戦から僅か4年で栄光をつかみ、その頂点で実質的に幕を閉じたヴァンウォールの歴史はF1史上でも稀有なものであった。それはまた、クーパー、BRM、ロータスといった英国勢の黄金時代につながる先駆けでもあった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。