永井 智子(ながい ともこ、1908年 - 1992年11月2日)は、アルト歌手。作家永井路子の実母。太平洋戦争末期の空襲逃避行に、当時の夫菅原明朗と共に老永井荷風を帯同し、身辺の面倒をみた。茨城県古河市の永井家に生まれる。茶、陶漆器をあきなう旧家。小学校卒業後、東京の女学校に学び、続いて私立の音楽学校に進む。1925年(大正14年)3月、永井擴子(筆名永井路子)を、東京市本郷区で出産。1927年、夫、来島清徳と死別し、のち画家田中某と再婚した。1927年、日本放送協会の放送オペラに出演し、また、1929年ころから、流行歌のレコードを吹き込む。ムーラン・ルージュ、浅草松竹座のエノケン一座を経て、浅草オペラ館に迎えられる。エノケン一座にいた1935年、その会報誌に「私の好きな歌手」を連載した。また1938年、浅草オペラ館の楽屋に現れて踊子の写真を撮りまくる「写真のおじいさん」を、永井荷風その人と直感したという。その1938年5月17日より10日間、永井荷風 - 菅原明朗のオペラ「葛飾情話」の主役を勤め、その縁で菅原と、それぞれの家庭を捨てて結婚する。1945年夏、太平洋戦争末期の空襲を、菅原と明石へ、ついで岡山市へ逃げ、帯同した66歳の永井荷風の面倒を見る。戦後一女を得る。60歳ころ、菅原明朗と離婚。晩年、後進に発声法を教える。1992年(平成4年)11月2日、84歳で没。遺品中に、「葛飾情話」のピアノスコアがあった。作詞、作曲、編曲の記録もある。山野楽器のCD、「浅草オペラ 華ひらく大正浪漫」(YMCD-1056)(1998) に収録されている。
出典:wikipedia
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