大泊(おおとまり/おほとまり)は日本海軍の砕氷艦。日本で建造された最初の砕氷艦でもある。艦名は亜庭湾北部の大泊港にちなむ。同型艦はない。日本海軍には、北洋警備の重要性に対する認識はあったものの、高い砕氷能力を持った艦の建造には至らなかった。しかし、1920年(大正9年)に尼港事件が発生した際、氷海での行動力を持った艦を保有していなかったため、救援に失敗したことが教訓となり、大正9年度計画の能登呂型給油艦のうち1隻を砕氷艦に変更し、大正10年度軍備補充費で本艦が建造された。艤装はロシアの砕氷船「ドブルニア・ニキチッチ」を調査した結果を基にしていたが、羅針艦橋が開放式で防寒防風波浪への対応には天幕を張るだけだったこと、冬季における寒さ対策が十分でなかったこと、船体の強度が不十分だったことなどから、後に羅針艦橋を全周密閉式として室内に木材を張りガラス窓としたり、中央構造物から艦尾に達するプープデッキを増設して居住区とし、さらに艦首に衝角状の突起を設けて艦首の強度を高めるなどの対策が施された。約1mの厚さの氷盤を割るときは、艦首を氷盤の上に乗り上げてから、艦首部の海水タンクにポンプで海水を満たし、艦自身とタンク内の海水の重量で氷を上から押し曲げて割っていた。2mの砕氷能力を持つとされたが、実際の砕氷能力や連続砕氷能力はこれより小さいはずだった。竣工後、舞鶴鎮守府、次いで横須賀鎮守府に籍を置いたが、春季から夏季にかけて函館、大湊、あるいは横須賀に帰投し修理や乗員の交代を行った時以外は一貫して北洋で行動し、日本海軍唯一の砕氷艦として北方全般の警備、航路啓開、漁業の保護に多大な貢献を果たした。海人社は本艦を「間宮に匹敵する功労艦」と評価している。太平洋戦争前に大湊警備府附属となり、戦時中は主として宗谷海峡や亜庭湾で行動し、ソ連船の臨検などを行った。1945年7月20日、補修整備のため横須賀に入港し同地で終戦を迎えた。1938年3月、日本海軍は本艦の老朽化、砕氷能力の低さ、そして砕氷艦が一隻しかないことが問題視され新砕氷艦の建造や二隻の耐氷型貨物船を購入し砕氷艦に改造する計画が検討されたが、本艦に代わる砕氷艦は終戦まで出現しなかった。1945年12月1日、横須賀地方復員局所管の特別輸送艦に指定されたが、艤装や缶の損耗が著しく整備に多額の費用がかかるため使用されず、日本鋼管鶴見造船所の岸壁に係留され、1946年5月7日には特別輸送艦の指定を解かれた。後に長浦港に曳航され係留。砕氷能力があるため海上保安庁の北洋用巡視船として使用する計画もあったが、修理費がかさむために見送られ、1949年10月から1950年3月にかけて解体された。
出典:wikipedia
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