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国鉄C62形蒸気機関車

国鉄C62形蒸気機関車(こくてつC62がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。1948年から翌年にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両(日立製作所21両・川崎車輛(現在の川崎重工業車両カンパニー)15両・汽車製造13両)が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される、主に平坦地や、軟弱地盤の少ない東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。終戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦とともに大半が余剰となった。一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。これに加え、増える一方の買出しも、旅客用機関車の不足にさらなる拍車をかけた。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だった。そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。財政難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。なお、D52より転用のボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されている。占領軍 (GHQ) のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)の指示は、本形式とC61形がほぼ全機ロールアウトする後の1949年3月のことであり、巷間言われるような関係はない。これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車で、C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されたものである。機関車全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mm。軸配置は、従来の2C1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることが可能で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造されたものと、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河駅以南の東北本線や、仙台駅以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。軽軸重形は空転防止(出力抑制)のため、シリンダ内にスリーブを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず、昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述がない。また最初に函館本線に転属した3号機にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録はなく、機関士の使用感が違ったとの記録もない。D62形の例と混同され、広まった可能性が指摘される。本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(1 - 21号機)、川崎車輌兵庫工場(22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、前後で同一形状の蒸気溜りと砂箱のキセや、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した高田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000mm、燃焼室付きである。炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10tおよび水22tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発された事から5号機以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。本形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式としたが、開閉が重く振動音が大きいなど問題があり、後に改良型のリンク式として解決を図った。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m²時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎駅 - 八本松駅間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。1948年から1949年の間に完成したC62形49両は、広島、広島第二、糸崎、下関、岡山、姫路、宮原、梅小路(以上は東海道本線・山陽本線沿線の各機関区)、宇都宮、尾久(以上は東北本線沿線の機関区)に分散配置され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。そのほとんどが当初各メーカーに近い機関区に配置された。具体的には、日立製作所笠戸工場製の21両は浜松機関区に配置された6号機と後期製造の軽軸重形3両(19 - 21号機、宇都宮機関区)を除く全17両が岡山駅以西の各機関区に、川崎車輛兵庫工場製の15両はやはり浜松に配置された28号機以外の全14両が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製造大阪製作所製の13両は後期製造の軽軸重形5両(45 - 49号機、尾久機関区)以外の8両は岡山、宮原、梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されている。これは納品後の不具合洗い出しと、運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的と見られる。1949年3 - 4月に落成した軽軸重形の8両(日立の19, 20, 21号機と汽車製造の45, 46, 47, 48, 49号機)は、新製配置より東北本線および常磐線用として尾久および宇都宮に配置されているが、これら以外にも初期製造のうちの11両(7, 8, 9, 10, 11, 22, 23, 24, 37, 38, 39、いずれも1948年11月上旬までに使用開始された実績のある機体)が同年6月までに新製配置区から東北本線および常磐線沿線の機関区(白河、宇都宮、尾久、水戸、平)に転属しており、東京以北区間でのC62形運用はこれら19両で開始された。なお、東北本線での充当区間は白河駅以南区間のみであったが、試験的に白河駅以北へ入線したことがあった。しかし、勾配の連続する郡山駅 - 福島駅を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。1950年10月改正では、東京駅 - 大阪駅間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため当時東海道・山陽本線で運用されていたC62形各車は浜松、名古屋、梅小路、宮原の4区に集中配属となり、中でも特に調子の良いものが宮原機関区と浜松区に集められ、これらを整備の上、当時非電化の浜松駅 -京都駅間から戦前に電化されていた大阪駅までの牽引に充てることとなった。宮原機関区では配属車両の中でも29号機をはじめとする好調機、普通機、2号機などの不調機と、識別のためにそれぞれナンバープレートの色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急客牽引に充当された。本形式はこの特急運用においてその性能を発揮し列車運転時分の短縮に貢献したが、特に宮原機関区では、機構上の制約から、スクリュー状の送りねじを回転させて給炭するため、途中で石炭が粉砕されやすく投炭時に石炭くずが発生しやすい自動給炭機の使用を制限し、人力投炭を行うことによって、乗客に不快感を与えるシンダ(煙突から排出される石炭の燃えカス)の発生を抑止するという、本形式の大きな火格子面積や、関ヶ原越えを含む厳しい線路条件による燃料要求量を勘案すると過酷な投炭方法を実施していたと伝えられている。東海道本線の電化区間が西に伸びるに従って、本形式をはじめとする本線用蒸気機関車の運用区間は、その分短縮されていったが、1956年11月19日の東海道本線全線電化完成により、全区間でその座をEF58形電気機関車に譲るまでは非電化区間で「つばめ」・「はと」の牽引機を務め、1954年以降は名古屋機関区と宮原機関区所属車の一部に重油併燃装置を取り付けて「つばめ」・「はと」の牽引定数をそれまでの500tから550tに引き上げた。東海道本線で運用されていた本形式は電化の進行で一部が後述する北海道へ転出したが、多くは梅小路機関区や広島第二機関区、さらに下関機関区へと転属、山陽本線を主な運用区間として京都駅 - 博多駅間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」などの、当時を代表する優等列車の牽引に充当された。だが1958年8月14日に岩国市付近の踏切にて、上り特急「かもめ」を牽引していた4号機と進駐軍のトレーラートラックが衝突する事故があり、同機はC62形最初の廃車機となっている。「あさかぜ」新設後も山陽本線を通る優等列車は増強され、1958年に「あさかぜ」用として登場し以後「さくら」運転開始などで増備が続けられた20系客車も姫路駅 - 下関駅間では本形式が牽引した。しかし、「かもめ」が1961年にキハ82系で気動車化され、寝台特急や急行列車の牽引区間も幹線電化の進展によって岡山駅、ついで広島駅以西と次第に狭められていき、1964年10月には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅、その後は広島運転所の配置車が電化から漏れた山陽本線西部の一部列車に充当されたほか、山陽本線の補助線として特別甲線規格で整備されていた呉線を受け持つため蒸気機関車の配置区として残されていた糸崎機関区に転属、呉線経由で運転されていた急行「安芸」などを糸崎駅 - 広島駅間で牽引する運用へC59形と共に充当され続けた。もっとも、これらの運用に充てられた本形式も広島運転所の配置車が1967年で全廃となるなど次第に数を減らし、呉線直通列車以外の山陽本線運用は糸崎機関区からの機関車回送を兼ねて残された糸崎駅 - 広島駅間の下り普通列車1本と一部の臨時列車を除き1968年10月までに消滅した。呉線の運用では1967年末に後述する常磐線全線電化で軽軸重型5両が平機関区から糸崎機関区に転属、重軸重型への改造は行われないまま使われていたが、編成重量が呉線内の単機牽引定数一杯となる12両編成、460tであった急行「音戸」を牽引した際には16‰前後の勾配区間が連続する安登駅周辺で空転が頻発したため、1969年1月から編成重量の比較的軽い「安芸」は重軸重・軽軸重型問わず本形式の牽引が基本となる一方、「音戸」などの重量列車牽引はより軸重の重いC59形限定運用と分離され、同年中には軽軸重型3両(46 - 48号機)が検査期限の都合もあり廃車となった。さらに1970年3月には41号機が検査期限切れで廃車となり、糸崎機関区では本形式に運用の余裕がなくなったことから一部の旅客列車運用をD51形が代走することもあった。呉線の電化工事は1970年8月に完成、同月下旬からは蒸気機関車牽引列車に電気機関車を連結して訓練を行う電蒸運転、9月中旬からは上り「安芸」などで電機単独運転も行われるようになり、山陽本線・呉線での運用は1970年9月30日が最後となった。最後まで運用された5両のうち15・16号機は小樽築港機関区へ転属、17号機は稲沢第一機関区を経て名古屋市内へ保存の手配がとられたが、常磐線電化による転属車で最後まで残った23・37号機は廃車となり、糸崎機関区からは本形式の配置がなくなった。これをもって、本形式1号機の新製配置以来22年に渡った、東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた。新製から数年間は東北本線の白河駅以南と常磐線において運用されていたが、東海道本線の電化が進んだことから1955年以降C59形が仙台駅以南の東北本線用として転属してきた。このため、本形式は1954年9 - 11月にかけて尾久・平の両機関区に転配され常磐線を中心に運用されることとなった。なお、1960年代の初めごろまでは、朝・夕の通勤・通学時間帯に運転される東京駅乗り入れの常磐線の普通列車(正確には、東京側の始発・終着駅は新橋駅)を牽引していたこともある。1958年には新設された特急「はつかり」の上野駅 - 仙台駅間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され、この際に尾久機関区では7・8・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した。動力逆転機のまま残った9・23・38・39と平機関区配置車も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外している。特急「はつかり」は、運転開始後わずか2年の1960年に、新開発のキハ80系気動車へ置き換えられて、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、「みちのく」・「十和田」といった客車急行牽引の主力機として重用された。もっとも、1963年に常磐線の平駅(現在のいわき駅)以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用はEF80形によって置き換えられた。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平駅 - 仙台駅間のみとなった。電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て仙台機関区に転属し、一時は東北本線の仙台駅 - 青森駅間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42も小樽築港機関区から転属した。だが、保線側から本形式の入線による軌道への悪影響が懸念されたことや、既にDD51形ディーゼル機関車の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用もないまま、1965年度中に全車廃車となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていたC60形・D62形とほぼ同一だった。その後、1965年の東北本線盛岡駅電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された20系による寝台特急「ゆうづる」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり、非電化のままの平駅 - 仙台駅間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。なお、この「ゆうづる」には黒岩保美デザインのヘッドマークが掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際に最も映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410tと比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいたダイヤ編成では特に問題なく運用可能のはずだった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難かった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150kmを無停車のまま2時間15分(上り:表定速度約67km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に品川客車区配置の20系予備車を連ねた15両編成を用い、田端操車場と青森駅の間で本運用に準じたダイヤでの試運転が実施された。この試運転の結果、発熱量約6,500kcal/hで、夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの石炭を各機関区でブレンドした通常使用の石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用(SL甲組 仕業番号1)に限り、北海道夕張産の、高カロリーかつ排煙の少ない良質粉炭とピッチを混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)豆炭と呼ばれた発熱量8,000kcal/hの甲種練炭限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの余裕時分を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の1967年10月1日には同区間の電化完成でED75形の牽引に切り替えられた。電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次、ED75形の牽引となり、特急「ゆうづる」も下り5列車が8月20日よりED75形の牽引に切り替えられ、上り6列車牽引の本形式は203列車で平から仙台へ送り込むように変更された。だが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好な23・37・46 - 48の5両が呉線を担当する糸崎機関区へ転属、不調気味の10・22・24・38・39・45の6両が1967年11月24日に除籍、解体となった。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、1968年6月13日に除籍、解体処分に付されている。東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった1950年代後半、北海道の函館本線で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する長万部駅 - 小樽駅間の通称・山線区間でのD51形重連運用と、函館駅 - 長万部駅間の通称・海線区間での高速運転により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。前者の形式はストーカー非装備だったことから機関助士2人による人力投炭を強いられた。後者は振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた。そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めたC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず1956年9月に3号機が梅小路から発送され、苗穂工場に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた軌道負担増大の問題についても、保線側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌1957年の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針の下、宮原機関区所属で保留車となっていた、東海道時代に除煙板につばめマークを取り付け人気を集めた2号機、および30・42号機と、梅小路機関区で余剰となっていた27・32・44号機の6両が選出され、D52形から流用されていた戦時設計による粗製濫造ボイラーの新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、小樽築港機関区へ転属の手続きがとられた。小樽築港機関区への配属後の本形式は、函館本線で「大雪」、「まりも」、「ていね」→「ニセコ」、「アカシヤ」などの急行列車牽引に使用され、最も過酷な使用条件の山線区間の急行運用はD51形による重連からC62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連に変更された。この運用では、つばめマーク付のC62 2が重連の先頭に立つことが多かった。これはファンサービスが目的ではなく、前補機は長万部駅でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためである。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側、運用側の両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。また、函館本線の七飯駅 - 大沼駅(旧:軍川)間については、1966年10月に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:「藤城線」と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、渡島大野駅(現:新函館北斗駅)・仁山駅(旧:仁山信号場)を通る、仁山越えの従来線(現在、仁山駅を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっている)経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていた。ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述のとおり減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引だった。なお、42号機は、函館本線経由で函館駅 - 札幌駅間を結ぶC62形牽引の昼行急行が「まりも」1往復のみとなった1963年10月のダイヤ改正時に、仙台機関区に転属となっている。1970年には好調故に本務機に多用され、走行キロ数が伸びていた32号機と44号機がディーゼル機関車への置き換え計画実施まで1年を残して全検周期に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を改造するほうが大幅に安価ということで、2両とも廃車とし、代機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた、当時、糸崎機関区に所属の15・16号機を、交換が必要な従台車は32・44号機からの廃車発生品を流用し軸重軽減改造の上で転属させ、残りの1年間使用し、1971年末に廃車となっている。尚、15号機のテンダーは32号機のものと交換した。一時期は間合い運用で、函館駅 - 札幌駅間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線・千歳線経由)の函館駅 - 長万部駅間や、函館駅 - 網走駅間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北」の小樽駅 - 旭川駅間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した。なお、急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年10月のダイヤ改正以降の札幌駅 - 網走駅間の夜行急行「大雪6・6号」→ 1978年10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ 1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ 2006年3月のダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急「オホーツク9・10号」の母体となった列車である。最後まで重連運転の残った「ニセコ」も、1971年の7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ、大幅にスピードアップされ、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所要時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。その後は小樽駅 - 長万部駅間の普通列車運用に充てられていたが、翌1972年秋に2号機は動態保存先の梅小路蒸気機関車館へ転属となった。本来は現存最若番車を保存する方針だったが、ツバメマークによる人気から、C62形では1号機が現存していたにもかかわらず、2号機が選定された。ほかに3号機が臨時列車用として残ったが他の同形機は廃車解体となった。その後、一時休車状態にあった3号機が1973年の一時期に函館本線の小樽- 長万部間の普通列車を牽引したことがあった。しかし、この3号機も函館本線の小樽駅 - 長万部駅間の完全無煙化により1973年10月末で休車となった上で間もなく廃車となった。正式な除籍は1976年3月末に実施された。1976年から1986年秋まで、小樽市の北海道鉄道記念館(その後、小樽交通記念館を経て現在は小樽市総合博物館)で静態保存となった。以上のように本形式は優等列車を中心に第一線で華々しく運用されたが、お召し列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。特に東海道本線・山陽本線系統では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(25・30号機)は存在している。乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると、作業環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。現存5両のうち3両が2016年4月に開館した京都鉄道博物館に所在する。うち、同館の2号機は動態保存で車籍も有すが、法定検査を受けていないため、本線での運転は不可能である。トップナンバーである1号機は1967年7月14日の除籍後、保存を見越したためか広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年3月、広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された。しかし国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる標識灯を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。2013年7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62形1号機のデフレクタに「999」のエンブレムとヘッドマークの取り付け、同年9月1日まで蒸気機関車館扇形車庫11番線に展示された(なお、同館に動態保存されている2号機はヘッドマークを取り付けてSLスチーム号を走行した)。梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存展示されている。1972年10月10日に、鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に動態保存され、それ以降国鉄→JR西日本梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初、1972年10月14日・10月22日・11月5日・11月19日、1973年3月11日・4月22日には京都駅 - 姫路駅間で臨時列車「SL白鷺号」を牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場(現在の長野総合車両センター)で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」などの本線自力走行や、本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されていた。現役時代に搭載された重油タンクは撤去された。なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定で、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形は当時1号機が存在したため当初は候補に挙げられていたが、2号機の人気には逆らえず、変更となった模様である。1997年9月11日午前10時、京都駅の新駅ビル落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65形の牽引により回送されたが、その際1番線ホーム(現在の0番線ホーム)で機回しを行った。その間20分ほど。新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形が展示されるという演出がなされた。本機はJR東日本への管外貸出が2回ある。1度目は鉄道の日制定および大宮工場開設100周年記念として、1994年10月9日に行われた大宮工場の公開イベント「新旧つばめの出会うとき」で、JR東日本が保有するEF551およびEF5893、JR九州から借り入れた787系電車とともに展示された。2度目は1999年8月1日 - 9月12日に行われたアニメの企画「ドリームトレイン1999」のイベントで、品川駅にて展示された。しかしながら、この回送途中に軸焼けしていることが判明したため、それ以降、長距離の移動を伴う貸し出しは行われなくなった。2010年頃には過熱管の水漏れの発生により休車していたが、梅小路蒸気機関車館開館40周年記念事業の一環として修理され、その記念日の2012年10月10日に正式に構内運転復帰となった。2016年4月29日以降は京都鉄道博物館で引き続き「SLスチーム号」の保存運転をおこなっている。3号機は廃車後、小樽築港機関区で保管の後に1977年から北海道鉄道記念館(現・小樽市総合博物館)で静態保存されていたが、国鉄分割民営化直前に小樽築港機関区で復元された。現在は北海道旅客鉄道苗穂工場内の北海道鉄道技術館で静態保存されている。詳細は下記ページを参照。日本の蒸気機関車最高速度記録保持機の17号機は名古屋市千種区・東山動植物園に1971年から保存されていたが、2011年3月、名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館に移設された。2014年4月に閉館となった大阪市港区・交通科学博物館には26号機が1966年から閉館まで静態保存されていた。その後、2016年に開館した京都鉄道博物館に移設された。これらのほかに、東京駅丸の内側地下コンコース「動輪の広場」には15号機の動輪3組とメインロッド、それにサイドロッドが組み付けられた状態で保存展示されている。以上のとおり、特徴的な形状で知られた汽車製造製グループの13両は1両も現存しない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして、本形式のラストナンバーでもある49号機は、常磐線でのさよなら運転後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらず、時期的に、いわゆるSLブームが社会現象となる直前の時期だったこともあり、そのまま1968年6月13日に関東支達42号により廃車・解体処分に付されてしまった。この49号を含め、汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく東北・常磐線系統に配置され、比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていた。

出典:wikipedia

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