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明知遠山氏

明知遠山氏(あけちとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。江戸時代には江戸幕府の旗本となり明治維新を迎えた。菩提寺は岐阜県恵那市明智町にある龍護寺で、明知遠山氏代々の墓が現存する。本拠は美濃国恵那郡明知城。宝治元年(1247年)、加藤景廉の孫で、明知遠山氏の始祖・遠山三郎兵衛景重が明知城を築き、代々守護したという室町時代は、『花営三代記』の応永28年(1422年)の記事に遠山明智小太郎景時、同小太郎景氏、応永30年(1423年)の記事に遠山明智小太郎、文安元年(1444年)の『文安年中御番帳』に遠山明知大蔵少輔がみえる(『中津川市史』)。戦国時代の遠山氏の宗家は岩村城主の岩村遠山氏で、遠山一族は美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、「遠山七家(遠山七頭)」と称された。その内の岩村遠山氏・明知遠山氏・苗木遠山氏を、「三遠山(遠山三頭)」と呼んだ。明知遠山氏では、天文12年(1543年)に遠山景行(惣四郎)が当主となった。天文24年(1555年)頃から、遠山諸氏は甲斐・信濃を領する武田氏に属していたが、同時に尾張の有力者であった織田氏とも婚姻関係を結んでいた。岩村城城主であった遠山景任が病死すると、織田氏の縁者が継いだことで、武田とは関係が悪化した。元亀3年(1572年)12月、 武田氏の西上作戦が開始されると、織田氏方の遠山氏は攻撃を受け、岩村城は降伏。さらに上村合戦で遠山景行は武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)の軍勢に破れて討ち死にした。なお、このときに明知遠山氏の一族が相模に行き北条氏に仕え武蔵遠山氏となったという説がある。ただし武蔵遠山氏の初代は景行のおじ・直景で、彼が東国へ移動した理由は不詳である。天正2年(1574年)、武田勝頼の侵攻で明知城は陥落し、景行の次男で城主の遠山友治(勘右衛門)も討ち死にした。明知遠山氏では、これより前の元亀元年(1570年)にすでに嫡男・景玄が死去しており、景行の嫡孫・遠山一行(与助)があったが、幼少のために叔父にあたる遠山利景(勘右衛門)が還俗して跡を継いだ。天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻った。しかし天正10年(1582年)本能寺の変後、羽柴秀吉についた森長可が苗木城主遠山友忠を追い東美濃を制圧、これをみて利景は徳川家康を頼り三河足助城へ逃れた。小牧・長久手の戦いのなかで一時的に利景は明知城を奪回したが、和睦により森氏に返還されてしまった。その後、遠山一行・利景は家康に従った。天正13年(1585年)、一行が依田康国の下で小諸城を守る。天正16年(1586年)冬、利景の養子となっていた一行は、信州から駿府へ向かう途中、甲駿国境の平沢峠で大雪のため凍死している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、森氏から代わって明知城を領した岩村城主田丸直昌が西軍についたため、利景は田丸方の守る明知城を落城させ、その功で戦後に旧領回復を成し遂げて6531石の旗本となった。ただし一国一城令のため、利景の子・遠山方景(勘右衛門)のとき明知城は廃城となり明知陣屋を本拠地とした。12代遠山景高は安芸守となりペリー来航時の浦賀奉行を務める。景高の五男信任は高家武田家に養子に入った。方景の孫による分家からは、江戸後期に著名な遠山景元が出ているが、その父は永井氏の出身の養子であり、血縁はない。明知遠山氏の一族は、松山城を構える伊予松山藩(愛媛県松山市)の藩主久松松平氏に仕えたという 。この系統は遠山九字直違の家紋を使用している。なおアール・エフ・ラジオ日本の会長・遠山景久の家の家紋も遠山九字直違である。寛政重修諸家譜第七百八十七巻によると、景行家は以下と記載されている。

出典:wikipedia

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