拾ヶ堰(じっかせぎ)は、安曇野を流れる灌漑用に作られた用水路(堰)である。正式名称は、拾ヶ村組合堰。この堰は、奈良井川(松本市島内)から取水し、梓川を横断し、更に大屈曲しながら、烏川(安曇野市穂高)に至る約15kmの用水路で、安曇野における最も大規模な用水路である。疏水百選にも選ばれている。安曇野は、扇状地であるため地下に水がしみ込んでしまう乏水地域である。そのため安曇野は古くから農業用水に恵まれず、柏原村、吉野村の庄屋などが拾ヶ堰の開削を計画したものである。江戸時代の信濃国安曇郡成相組成相町村・成相新田町村、長尾組上堀金村・下堀金村、保高組吉野村・柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村の10ヶ村を灌漑する組合堰である。後に、長尾組中堀新田村も加入し、11ヶ村となる。穂高本郷・柏原全域・上堀・下堀1849年(嘉永2年)に松本から柏原村まで拾ヶ堰の通船が開通。船主は、柏原村の利兵衛・等々力孫右衛門の2人であった。米穀や酒を松本まで運び、帰りには日用品などを船積にした。拾ヶ堰に関する記念碑は2つある。1つは、国道147号と交差する地点。もう1つは松本市島内犬飼新田の地である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。