株式会社大沼(おおぬま)は、山形県山形市に本社を置く日本の百貨店で、老舗である。日本百貨店協会に加盟している。1700年(元禄13年)に初代大沼八右衛門が山形の七日町(なぬかまち)で荒物屋を創業したのが始まりである。百貨店を経営する企業のルーツとしては1611年(慶長16年)の松坂屋、1673年(延宝元年)の三越に次いで3番目に古い老舗企業であるが、百貨店の経営に乗り出したのは第2次世界大戦後の1950年(昭和25年)7月に株式会社大沼百貨店を設立して鉄骨モルタル造2階建ての店舗で営業を始め、1952年(昭和27年)に増築した段階でも総面積950m²と百貨店法の規定を下回る規模の店舗であり、1956年(昭和31年)11月20日に地下1階地上4階建て5,500m²の現在の店舗を開いたのが本格的な百貨店としての始まりである。この開業は、従来百貨店のなかった山形市では4日前の1956年(昭和31年)11月16日に開業した丸久百貨店と共に最も古いが、全国的に見れば百貨店としては老舗ではない。1965年(昭和40年)と1971年(昭和46年)に本店の増床を行って現在の規模まで拡大したほか、1967年(昭和42年)には酒田市の酒田駅前に酒田店(酒田中町店開業後は酒田駅前店となり、1973年(昭和48年)に閉店)、1970年(昭和45年)11月には米沢市に米沢店、1971年(昭和46年)に酒田市の代表的な繁華街である中町に酒田中町店を開設して山形・酒田・米沢と山形県内の北部から南部までカバーする百貨店チェーンに成長した。1976年(昭和51年)10月29日夕方17時40分ころに発生した酒田大火で店舗は周辺の市街地22.5haと共に全焼し、酒田中町店は閉店に追い込まれた。従業員を山形や米沢の店に移して雇用を続けながら、酒田市が主導して進められた復興計画に則って店舗再開を目指したが、従来の酒田中町店があった5街区はライバルの百貨店清水屋が進出することになった為、当初は27街区付近での店舗再建を目指したが地権者の反対で断念し、次に31街区(本間家旧本邸東側付近)での再開を目指したがここも地権者の同意取り付けに失敗し、中町地区での店舗再建は断念に追い込まれた。その後は方針転換して、当時酒田駅前にあった庄内交通の駐車場を移転してその跡地に建設された庄交ターミナルビルを借りて1981年(昭和56年)9月25日に酒田店の再建を果たした。しかし、当時の酒田の繁華街ではなかった上、地元との交渉などで1978年(昭和53年)10月28日のライバルの百貨店マリーン5清水屋の開業や1979年(昭和54年)3月末にはほぼ復興した中町周辺の中心市街地より再開が遅れたことなどが影響して業績が低迷し、1984年(昭和59年)に酒田店を経営していた酒田大沼がダイエーと業務・資本提携する形で事実上営業を譲渡し、1986年(昭和61年)には店名もダイエーに変更して完全に撤退することとなった。1965年(昭和40年)には売場面積では7,427m²とライバルの丸久の9,500m²を下回っていたにもかかわらず売上高19.7億円で丸久の16.9億円を上回るなど山形の地域一番店の座を獲得し、1967年(昭和42年)に十字屋・緑屋・長崎屋・田丸屋・オビジョー、1972年(昭和47年)10月のダイエーなどのライバルとなる大型店が七日町に続々と進出する中で競争を続けると共に、1965年(昭和40年)に山形市の乗用車の登録台数が3,244台で人口100人辺り1.7台だったのが、1975年(昭和50年)には31,775台、1985年(昭和60年)には64,327台で人口100人辺り26.8台と急激に進んで全国平均(23.0台)を上回るほど進んだモータリゼーションに対応し、1972年(昭和47年)3月に大沼パーキングを開設したほか、1983年(昭和58年)には地域産業振興室を設立して大分の一村一品運動の山形県版・民間版に取組んで44市町村の住民・役所などと共に三階の名産品を発掘して売り出すなど地域密着の営業活動を続けた。しかし、1973年(昭和48年)に山形県庁が七日町周辺から移転して七日町の来街者の減少が始まり、昭和50年代ころから郊外のロードサイドに出店した大型店との競争が始まり、1997年(平成9年)11月28日のジャスコ山形北ショッピングセンター開業、2000年(平成12年)11月22日のイオン山形南ショッピングセンター開業するなど郊外の大型ショッピングセンターとの競合が激化して中心市街地から大型店が撤退するなど周辺の商店街の地盤沈下が進んだことや消費の低迷の影響を受けて、1997年(平成9年)2月期の売上高165.8億円で経常利益0.94億円だったのが2000年(平成12年)2月期に売上高143.67億円と落ち込んで2.19億円の経常損失となるなど近年は業績低迷に苦しみ、2005年(平成17年)2月期まで3年連続の減収、2年連続の最終赤字となるなど業績が低迷していた。こうした苦境を打開するため2004年(平成16年)に元伊勢丹常務取締役の鈴木勝雄が大沼の取締役相談役に就任し、「現場無気力症候群」に陥っていることを原因と見て経営側と労働者が5人ずつが参加する「労使協議会」を作って課題の解決に向けた話合うなど組織や人員の簡略化をしてやる気を引き出し、商圏が狭い地方都市の特性を社員全員が理解して把握させるために全員週に1度お得意様回りをさせて生活に密着した商品の展示となるように品揃えを変更するなど改革に取り組み、2006年(平成18年)2月期には売上高は88億1100万円(天童・新庄店売上を含む)で前期比9.8%減と引き続き減少したものの、不良在庫の整理などのリストラの効果で最終利益は3期ぶりに黒字転換を果たした。1999年、米沢市平和通り一番街区の再開発事業が持ち上がり、翌2000年に地権者らが準備組合を結成。2001年大沼は再開発によって建設を予定されるビルに出店を表明した。再開発計画は、総工費約57億円を投じ約1万7千平方メートルの敷地に地上4階建てのビルを建設。大沼は1階と2階にテナントとして入り3階、4階、屋上は駐車場とし、2004年度中のオープンを目指すとしていた。しかし、競合激化によって売り上げの低迷が続く中において、投資を行うことに大沼のメインバンクである山形銀行が難色を示し、2003年9月、大沼は景気回復の遅れを理由に出店断念を表明した。伊勢丹系列の全日本デパートメントストアーズ開発機構に加盟して商品仕入などを行っている。2006年(平成18年)3月からはポイントカードの発行を開始している。山形市の繁華街、七日町にあり、商店街の中核店舗として集客の要となっている。2007年(平成19年)9月5日には従来の青果売場の直営をやめて有力チェーンのテナントに切替えるなど地下1階の食料品売り場(いわゆるデパ地下)の全面改装を行うなど、高速バスで仙台の百貨店とも競争となる中でより地域に密着した営業を志向している。米沢市のアーケードのある繁華街、平和通り一番街の一角にある山形県置賜地方唯一の百貨店である。店舗前の通行量が2000年の1,903人から2010年には977人と約49%も減少し、米沢市の中心市街地の年間商品販売額が1997年の414億円が2007年には293億円と約29%も減少する厳しい状況下で郊外型店舗などと競争しながら営業を続けている。2011年まで地元の伝統文化である粕漬のコンテストの会場となるなど地元密着の営業を続けている。2016年9月には、10年ぶりに売り場の改装を実施。新ショップを導入したほか売り場の移動等を行った。2012年1月15日に店舗前の設置していた築40年近いアーケードが崩落する事故が起き、県と米沢市の担当者が、建築基準法に基いて調査する騒ぎが起こった。 2016年3月9日、本店向かいの七日町再開発ビル・イイナス南の宝飾店跡地にレディースファッションと服飾雑貨の新店舗であるONUMA Salon de Rose(オーヌマ サロン・ド・ロゼ)をオープンした。同店は30代以上の女性をメーンターゲットとし、店舗奥にはギャラリースペースを設け、随時催事等を開くとしている。1966年(昭和41年)に関連会社雅裳苑として創業し、オーヌマホテルとして長年営業していた。業績低迷と大沼本体の業績悪化もあり、2006年(平成18年)に横浜市の不動産会社リストに事業譲渡されてその子会社の山形オーヌマホテルが営業を引継いで同一名称で営業を続けたが売り上げの7-8割を占める宴会部門が伸び悩んで業績が改善せず、2008年(平成20年)3月30日に営業を終了した。同年土地と建物を購入していた函館市の不動産会社リード不動産が建物の解体を決めて宗教法人真如苑が取得することになったため、「公有地の拡大に関する法律」に基づく不動産取得の届出が提出された山形市から同年6月23日付で関係書類が山形県知事宛に提出された。
出典:wikipedia
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