多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。1998年(平成10年)6月に国の重要文化財に指定されている。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)と並ぶ日本三大古碑の1つとされる。石材は花崗砂岩(アルコース)で、現地の南東100メートルに露出する中生代三畳紀の利府層によく似た石がある。碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmで、その一面を平らにして字を彫っている。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている。碑に記された建立年月日は、天平宝字6年(762年)12月1日で、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる。江戸時代から保護のための覆堂の中に入れられ、場所は古代の多賀城南門の前である。復元模型が東北歴史博物館に展示されている。江戸時代初期の万治~寛文年間(1658~1672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている。碑文は様々に記録されたが異なる点が多く、現在読み取られる文面が判明したのは、仙台藩の儒者で史書編纂に従事した佐久間義和(佐久間洞巌)が、子の義方とともに拓本をとった元禄12年(1699年)である。多賀城碑が偽作ではないかという嫌疑は江戸時代末期からかけられていたが、明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である。偽作説の根拠としては、奈良時代の那須国造碑などと比較すると信を置きがたいと指摘される。すなわち、書体は古風を模しているとはいえ生気が無く、集字体であり、文字の彫り方は近世以降にみられる「箱彫」であるとされた。碑文の内容についても以下の問題点が指摘された。こうして多賀城碑は、仙台藩が佐々木義和に命じて作らせた偽作であるとされた。1963年(昭和38年)、多賀城跡の発掘調査が行われ、8世紀半ばに大規模な改修が行われていたことが新たに判明した。これは碑文後半の多賀城改修を示した内容に一致する。この改修に関する文献はそれまで発見されておらず、多賀城碑はこの改修を伝えている唯一の文献として再び注目された。そして碑が偽作であるならば改修に関して記載できないはずと考えられた。これをきっかけに多賀城碑偽作説の見直しが始まった。碑文の書体については、筆跡学的な検討により当時の貴人、高僧などの高い教養をもった人物によって書かれたものと判明した。彫り方についても再度検討され、「箱彫」ではなく「薬研彫」であることがわかり、近世以降の技法で彫られたものではなかった。また碑文の文字の配置には奈良時代の天平尺(2尺4寸)が用いられていることが判明した。碑文の内容についても検討された。東人の官位は陸奥国在任中に経た、按察使兼鎮守将軍、従四位上勲四等であると解釈すれば矛盾ないとされた。また、朝獦の官位については碑の「多賀城修築碑」という性格を考慮すると、朝獦の功績をたたえる意味で東人と同じ官位を記したのではないかと推測されている。間違った里程に関しても、そもそも偽作であれば誤りの距離をあえて記述する必要が無い筈とされた。さらに1997年(平成9年)の覆堂の解体修理に際して、碑の周囲の発掘調査を行った結果、古代の据え付け跡が確認された。この事により碑は建碑当初からこの場所にあった可能性が強まり、碑の真作説を後押しした。
出典:wikipedia
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